クラシック音楽はなぜ国家補助を必要とするか | 緑の錨

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歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

そんなことも少し考えてみました。

1/基本

資本主義経済のもとでは、多くの人は自分が仕事をした成果を売ることで収入を得て生活しています。芸術家も同じようにするべきではないかと主張する立場もあるでしょう。こうした立場から見れば、芸術の国家補助は否定するべきものかもしれません。

これに対して、芸術には創作物に文化的価値があってもかならずしも経済的収入に結びつかない分野があり、そういった分野を維持するために、補助金も必要なのだということもできます。

2/疑問と反論

そこで、芸術の国家補助に懐疑的な人は、いくつかの形で再反論をすることでしょう。たとえば、文化的価値を明確に、万人が納得するような形で具体的に示すことができるのかと問うこともできると思います。また、補助金の成果を具体的に示せと追求することもできます。

ただ、これはあんまり有効な反論ではないです。

この世界において、多くの大切なものは万人が納得するような形で、具体的に示すことができません。だから、具体的な成果を要求するのはあんまり意味がないのです。芸術に対する敬意は、世界の至るところで、漠然と、しかし長い歴史を通じて維持されてきました。こうしたものは大抵人間にとって意味ぶかいものです。

3/別の角度からの疑問

もちろん、芸術に対する国家補助に懐疑的な立場からは、もっと有効で賢明な再反論を組みたてることも可能です。芸術の価値も成果も具体的に検証が不可能であるとするならば、そこに国家補助を投入するとすれば、利権の温床になるのではないかという疑問です。

アクトンに「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」という名文句がありますが、芸術に対する補助は一定の助言者に頼るしかなく、しかも、かれらの決定の検証が不可能であるとするならば、そうした補助金はすくなくとも理論的にはある党派的立場に基づいて給付される可能性が出てきます。

今日、審議会政治の難点として、一部の「専門家」が密室で権力を恣にしてまったく責任を負わないという点が指摘されます。補助金配分が一部の専門家だけにゆだねられて、その顔ぶれが固定するとするならば、その専門家が安全圏にみずからを置きながら公権力を駆使するという事態も発生します。

私的な分野では国際コンクールで指摘される状況が、公的な分野でも国家補助において起こってくる余地があるわけです。

4/もう一つの問題点

また、原理的には、補助金によって安定が確保されると、効率化や人々の共感を呼ぶ努力を怠り、その芸術そのものが活力を失う可能性も指摘できます。

このような議論によって、芸術に対する補助金はかえって芸術に対する害を為すという主張だって、それなりの説得力をもって主張できるわけです。情実や惰性で補助金が付与されると、そうした特典をうける芸術家が特権的な地位に置かれて、その芸術家の活動も沈滞しますし、特典を受けない芸術家の活動を抑圧すると言うことにもなりかねません。

少なくとも、理論的には、このような危険は否定できない。もとより当事者の良心的で自覚ある態度によって問題が避けられる場合も多いでしょうが、制度や理論に問題があるかぎり、長い目で見れば、このような事態はいつか発生することになります。

5/資本の論理

しかし、ここには別の問題も出てきます。もし、芸術に対する補助金を打ちきってしまえば、今度は資本の論理にすべてを委ねることになります。そうすれば一部の分野は本当に消滅するしかありません。そうでなくても、見栄えがよいもの、外見が人を引きつけるものだけが維持されることになります。

それはそれで困ります。

古来知られていることですが、短期的な人気は芸術の価値とはしばしば無関係であり、次の瞬間には消え去るものが支持を集めて、しかし、長い時間を通じて人類に意味をもつものが同時代には顧みられないということもあるからです。

持続的な価値があるものが失われると、世界は本当に空虚になってしまいます。これは人間の幸福という見地からみると損失ということになります。結局、市場主義に傾きすぎても、世の中がうまくいくというわけではありません。

6/微温的な中間考察

それでは、どうやっても問題が起こるのではないかと言うことになりますが、人間世界における多くのことと同様、そのとおりなのです。抜本的な解決策はありません。ただ、ある程度、諸要素を絡みあわせることによって均衡をとるしかないでしょう。

7/対応策として思うこと(支給する側から見て)

たとえば、補助金の配分と対象は流動的であることが望ましい。補助金付与を決定する専門家はいつも入れ換えられていることが望ましい。補助金の対象もまたいつも変化していることが望ましい。審査の過程は公開であることが望ましい。これは審査する側からしても、憶測で批判されないために望ましいことです(こうしたとき、憶測で的外れな批判を受けるというのはときどき実際にあることです)。

8/対応策として思うこと(審査する側から見て)

審査する側は、自分の主観や情実を抑制することが特に大切であると自覚することが望ましい。あるいは、多少芝居がかっていますが、情実と恣意を廃して公的な目的のために、誠心誠意、職務に邁進すると宣誓してもよいかもしれません。もとより芸術の価値判断が私的なものであり、主観的であるのが必然にしても、その判断をする主体がつきつめて自分を問う努力をするのはよいことに思われます。

9/対応策として思うこと(支給される側から見て)

補助金を受ける側は、補助金に依存しきらないほうが望ましい。そのためにも補助金の付与対象が流動するのはよいことであるように思われます。

たとえば、公的施設、公的機関、自治体が、音楽事務所・財団法人などに施設運営を委託する場合も、短い期間で委託先を変更して、次は別の機関に委託するというようにするほうがよいように思われます。

また、予算消化のためにパッケージで公演を買うのではなく、個別に行事に予算をつけることも徹底されるべきでしょう。このようなことのためには、公的機関、公的施設、自治体の側にスペシャリストが必要です。

10/資本の論理も活用されるべき

一方で、資本の論理がある程度作用することも望ましいのです。なぜならば専門家だけの判断に委ねておくと、そこにはどうしても硬直した論理がまぎれこむからです。

日本のピアノ演奏はかなり長い間、専門家である批評家・音楽学者によって「指導」されましたが、その結果は私見ではかならずしも望ましいものではありませんでした。資本の論理、いいかえれば聴衆による人気投票の論理にも、一定の価値を認める必要があります。

12/所感

とにかく、改善は必要です。クラシック音楽があまりに補助金に依拠しすぎているとは、私も思います。しかし、だからといって届くべきところに充分に届いていないというのも事実です。補助金はある意味では多すぎて、ある意味では少なすぎるのです。より柔軟性が発揮できる状況になれば、補助金の有効性はより実感できるように思います。