思考の枠と型 | 緑の錨

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歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

音楽を聴くというのは、自由な行為であるべきです。しかし、意外なことに、人間は思考の枠と型に縛られがちです。しばしば批判される商業主義の場合、現在流行しそうなスタイルや属性をもつ作曲家・演奏家に便乗して、時勢に応じたモットーを叩きこむことで、消費を喚起するわけです。

研究者や批評家は、このような商業主義に拒否反応を示して、学的、あるいは批評的に裏づけられたあるべき芸術を提示することで、音楽界の流れを誘導しようとします。この方法はときに影響力を持つことがあります。1930年代に起こったのは、そのようなことであったように思います。

しかし、このような批評、学術の音楽活動への反映も、次の瞬間には商業主義にからめとられて、その消費喚起のための決まり文句として機能することになります。従って、アカデミズムの外に出た瞬間に、商業主義にある程度は荷担するのが批評・学術の現実参加の宿命になります。

かつての「現実」を批判して生まれた主張は、新しい決まり文句となって、次の時代には思考の型を形成して、人々を拘束する枠になります。そして、場合によっては硬直した抑圧的な役割をはたします。

また、このような現実参加は、ある種の権力行為ということになります。つまり、自分の意見に全体を誘導しようというわけですから、反対者に打ち勝つ必要が出てくるわけです。そして、そのような全体の傾向をいち早く消化したものがシステムを組んで団結して、その方向を維持することになります。

そのようなことは、しばしば組織化・制度化されていきます。経済的な利益とも結びつきますから、偽装された商行為そのものになってしまうのです。

もとより、このような「政治」は学的成果に基づいているからより正しいのだという弁明はできるでしょう。しかし、学問を専門的にしたものならば知っていることですが、学的成果は何度も修正されるもので、絶対的な真理と同一視などはできません。

つまり、勝者となるのは危険なことなのです。あるとき、批判してきたものに自分が似てしまう危険があるのです。これはわたしを含めて文筆で音楽について語るものにとって、大きな危険です。

結局、自分の認識の限界を熟知して、自制をもって提言というかたちで議論を展開することが学者・批評家にも要求されるのでしょう。そして、「運動」からはやや距離を取る自制心も必要なのでしょう。

音楽芸術に関しては、自分の学生ではない公衆に向けては、教師として振る舞ってはならないというのが、1930年代における音楽批評・音楽研究の教訓であるように思います。