124年目のシロタ・3 | 緑の錨

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歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

一方で、シロタはストラヴィンスキー、シェーンベルク、師のブゾーニの作品など、当時演奏すること自体が批判をともなった同時代の音楽を積極的に取りあげたのでした。

レパートリーの革新性と網羅性の両方で、シロタは傑出したピアニストであったように思います。このような特色をもつピアニストは、あまり多くはありません。

ブゾーニは恐るべきピアニストでした。後世の文献は、ブゾーニについて、できるかぎり作曲家の側面に光を当てようとしているように思えますが、しかし、まず、彼がピアニストであったことは重視されていいと思います。そして、この巨匠から、解釈の多様な可能性を、シロタは学んだのでした。

シロタは1928年に来日、1929年に再来日して、そのピアニストとしての最盛期である44歳からの17年間を日本で過ごしました。そして演奏家として、教師として、日本のピアノ演奏文化の一時代を築くことになりました。

ただ、日本で過ごしたことで、ヨーロッパとアメリカの動向を中核に置いたピアノ音楽史の記述からは忘れられることになりました。その点で、盟友イグナツ・フリードマンの高弟イグナツ・ティーゲルマンなどと比較してみるのもいいかもしれません。

エドワード・サイードにピアノと音楽文化を教えたティーゲルマンはカイロで活躍したのですが、近年まで顧みられることがありませんでした。彼については、また書いてみたいと思います。

シロタは日本でも忘れられました。1930年以降力を増してきた極端に即物的で杓子定規な演奏を支持する批評家や音楽学者にとって、シロタの演奏は容認できないものだったからです。そのために、シロタが日本を去ると、その演奏は厳しく批判されることになりました。

解釈の多様性を出発点とするシロタと、主観を排した解釈を金科玉条のように持ちあげた1930年代の日本の潮流は、全く接点のないものでした。