水戸のグロトリアン・シュタインヴェク(5) | 緑の錨

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歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

 ピアノとは夢と憧れと思いを結晶させる装置なのです。だから、さまざまなものの象徴にもなります。ひとびとはあまりにも多くのものをピアノに託すのです。

 妻の思い出として大場小学校に贈られたとき、それは子ども時代の楽しかりし思い出と、そのとき歌われたに違いなかった音楽や、さまざまなものを象徴したものでした。

 あるいはステッセル伝説と結びついたとき、つまり旅順で日本軍の好敵手としてあまりにも多くの血を日本人に流させた敵将について、その妻が奏でていたピアノのイメージが、このグロトリアン・シュタインヴェクに託されたとき、おそらくは戦争という残酷な行為のなかで、このピアノは人間性を象徴するものでもあったでしょう。

 これが史上名高い水師営の会見で乃木大将に贈られたという伝説も、やはり戦争という残虐な行為のなかで、武人同士の紳士的な会見という史実をピアノと結びつけることで、そこになんとか人間性を認めたいというひとびとの心情と結びついたものだったのでしょう。

 ピアノの夢と憧れと思いを結晶させる能力は広範で強力で、それがひとびとの切実な思いとも結びついているだけにしばしばとても印象的で感動的なものになるわけです。

 それは、その音楽が持ち得る力というものとも結びつくと思います。ピアノが奏でる音楽は非常に強力に人間に作用するので、そこに多くのイメージをピアノが抱えこんでいく理由があるのでしょう。

 このようにいくつもの思いをみずからに抱えこむ機能を、ピアノは持っています。だから、ピアノが象徴するものを安易に語るのは難しいわけで、わたしが音楽学の立場からする日本ピアノ演奏史研究に批判的な理由のひとつは、この点にあるといえるでしょう。

 もともと、わたしは歴史家なので、「近代」とか「西洋」とか「国民国家」とかいったキー・ワードが先行しすぎて、史料の理解がそれにあわせて都合のよいように行われる歴史記述には抵抗があります。