むかし、ヴィルヘルム・バックハウスの弾く『ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集』の録音を高名な音楽学者のかたが痛烈に批判しておりました。
それまでは、バックハウスの録音(ステレオのほうです)は有名すぎて聴いたことがなく、イーブ・ナットかアルトゥール・シュナーベルの弾いた全集に親しんでいたのですが、批判されたバックハウスの演奏に興味を持ち、その録音を買ってきて演奏を長い時間をかけて調べてみたのです。
その結果、わたしはバックハウスの演奏がよいと思い、それが好きであることがわかりました。これはブルーノ・ヴァルターの指揮したベートーヴェンの田園交響楽の演奏についてもおこったことです。
批評も学問も流行が足早に変わり、演奏もそれに伴って賞賛されたり批判されたりするのですが、しばしば記念碑的な演奏の寿命は批評や学問より長いものです。
たしかに直感的に演奏を聴いた感想をあわせて長く集積したものとしての評価はかなり堅牢なもので、だから傑作というものがあるともいえるのです。記念碑的な演奏の寿命が長いことは、多数の感想の集積としての評価が堅牢であるということでもあります。
一方で、個々の批評や学問は方法に左右されるわけであり、聴く方法によってよい演奏と悪い演奏が変わってくるということもあります。批評理論の氾濫からもわかるように、批評というのは方法論に依存する部分が非常に大きいのです。そして、方法ほど流行に左右されるものはありません。
だから、むしろ、だれかが声高に批判している演奏のなかには、別の方法で聴けば、しばしば興味ぶかいものがあり、ときには本当に感動的なものもあったりします。それは、批判しているひとが高名な批評家・音楽学者であっても起こることです。
批評や学問がもたらす評価が無意味とはいいません。そんなことをいえば、わたしを含めてすべて演奏について言葉で議論することも無意味になってしまいます。わたしたちが音楽に迫っていく手段として言葉はある程度は有効です。だからこそ、自分自身も言葉で書いているわけです。
また、傑作の評価がしばしば堅牢に維持されているのに考慮すれば、聴衆の受容だけを決定的なものとみなしたり、すべての価値は相対的だとみなしたりして、手軽な価値相対主義に飛びつくのはどうかと思います。つまりよい演奏と悪い演奏というものはあるのです。
しばしば新しい角度や方法を提示して、作品の評価に新風を送りこむのは批評の意義です。その意味で高名な学者や批評家による批評は試み続けられるべきではあるでしょう。
ただ、批評や学問が何かを評価しているとき、その批評を受けいれるにしても反対するにしても、その根源となる方法を承知しておくことは重要なように思われます。
同時に、批評家や音楽学者達が断固として筆誅を下した古い定評ある演奏家にいつまでたっても人気があって、批評家・音楽学者が賞賛した新しい演奏家に一向に人気が出てこない場合、そこには何か音楽的な理由があると考えてみることも有益かと思います。