080917


リーマンご兄弟のお陰でCNNが面白くて仕様がない昨今ですが、皆さん如何お過ごしでしょうか。サブプライムローン問題から派生した一連の事件で、アメリカ人のいい加減さがついに世界に露呈してしまいましたねぇ。経済は特に用語や理論が難解でつい見過ごしてしまうジャンルなので、こういったキャッチーな出来事が起こることで興味が湧いて理解が深まるきっかけになる、という有り難い側面もありますな。


などと言いながら、ここ数日そんなバタ臭さとは無縁の純文学を読み耽っておりました。
今日はその中から夏目漱石著「門」をネタに、宮崎駿監督「崖の上のポニョ」を考えてみようと思います。


「ポニョ」と言えばご存知の通り、「ポニョ=暗黒神話説」「ポニョ=クトゥルー神話説」、はたまた怒濤の作画やトンデモストーリーw について等々、巷を騒がせていますね。で、そっちはその方面に強い方々の分析を楽しんで頂くことにして、詳しいとは言えないまでも心から愛して止まない純文学方面から攻めてみよーという試みです。

と言うのも、「ハウルの動く城」を完成させた宮崎監督は次回作の構想に向けて夏目漱石全集を手に入れ、熟読し、そうして完成した映画が「崖の上」に住む「宗介」が主人公の物語「ポニョ」だったから。
そして夏目漱石の作品「門」は、「崖の下」に住む「宗助」が主人公の物語。
昔から「ゲド戦記」を常に持ち歩いて、作品づくりに行き詰まったらアイデアソースとしてページを繰っているという宮崎監督なのだから、「門」からも意識的・無意識的にインスピレーションを得ていたと考えても不自然ではない筈。

また、宮崎監督ご自身からの「ポニョ」紹介にある「さかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語。同時に、5歳の宗介が約束を守りぬく物語でもある。(中略)神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである。」という文章。
そして夏目漱石こそ、「神経症と不安の時代」に立ち向かい、人間の抱える根源的な矛盾や罪を暴き、如何に生きるべきか?と問い続け、苦しみながら多数の名作を遺していった物語作家であることに疑念を差し挟む余地は無い。

この偶然とは思えない符合に、こいつぁジブリ&漱石好きとしては黙ってられないだろう!と、「ポニョ」観賞後その材料を持って「門」を読んでみたという訳です。まあ恐らく「程度の過ぎる深読み」なんだろうと思いますが、ひねくれちまった大人ならではのお楽しみ、ということで…。

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さて、では「門」のあらすじをまとめてみましょう。(当然ネタバレ含みますのでご了承ください)
 ・主人公は崖の下に住む「宗助」とその妻「御米」。
 ・宗助はかつて親友であった「安井」を裏切り、安井の妻であった御米と結ばれた。
 ・闊達で若者らしい情熱に溢れていた宗助は、その事件以来、すっかり人が変わってしまった。
 ・宗助と御米はその罪に今も苛まれ、社会に対する積極性を失い、ひっそりと暮らしている。
 ・その反動から、互い強く必要とし、切り離されては生きられないものとして、非常に仲睦まじい夫婦である。
 ・宗助と御米の間には、3度の流産の末、子供がない。御米はそれを「天罰」だと考え嘆いている。
 ・度々の流産で体を痛めた御米は、薬を飲んでいつ目が覚めるのか分からない程眠り込んでしまうことがある。
 ・漸く過去に犯した「罪」の残した傷が治癒しかけた頃、宗助は偶然、近しい者から安井の名を耳にする。
 ・前後不覚になるほど狼狽し神経衰弱に陥った宗助は、宗教に助けを求めて禅寺の門を叩く。
 ・その際、御米の心身を気遣って安井のことは隠している。
 ・老師の教えに従って修行に励んでみるものの、何の悟りも救いも得られないまま帰宅の途につく。
 ・安井との接触の危険も去り、宗助と御米は平穏な日常に戻っていく。

すんごくザックリかいつまむと、こんなお話です。「御米」は「おこめ」じゃなくて「およね」です。
煌めきや鮮やかな色調を失い、くすんだ世界で紡がれる、静かで単調な物語。「ポニョ」で描かれる、希望や生命の躍動感に溢れる愛すべき世界とは対照的です。

注意したいのは、漱石作品には珍しく、主人公夫妻の仲が非常に睦まじいという点。揃って縁に座って秋の月を眺めてみたり、毎夜火鉢を挟んでその日の出来事を話し合ったり。一人で通りを歩く時には嘗てふたり一緒に同じ場所を歩いた時のことを思い浮かべてみたり、一人が病に倒れれば何も手に付かない程心配したり…羨ましくなってしまう程、互いを大切に思っている様子が伝わってきます。

しかしそれはふたりが社会から疎外された結果、伸ばす手の向かう先が、互いの心にしか見出せない為。広く外界へ伸びない代わりに、深く内側へ伸びた為。強く結ばれたふたりの絆には、そんな翳りが付きまとうのです。


そしてこのふたりは、実際の所、過去に犯した罪からくる苦しみを、分ち合えている訳では無いのです。
漱石作品に毎度と言っても良いくらい登場する「おそれる男」と「おそれない女」の形が、ここでも当て嵌まります。
ある日、御米は「今まで言おう言おうとして言えなかったことを告白する」として、3度の流産の後に耐えきれず迷い込んだ易者から言い渡された不吉な予言…二度と子供はできないだろう、あなたの過去に犯した罪のせいでできないだろう、という悲しい予言を宗助に打ち明け、さめざめと涙を流す。この告白を遂げることができる御米は、「おそれない女」と言えるでしょう。

一方、ふたりの罪を懺悔すべき対象である安井とのニアミスによって震え上がり、自分をどこまでも追いかけて来るかの様な運命の恐ろしさに耐えかねて、取る物も取り敢えず、御米にもなにも告げず、禅寺に入ってしまう宗助は、「おそれる男」と言える。

特に、それらの事件未満の事件を越えて春を迎えるエンディングでのふたりの遣り取りが象徴的です。
「本当に有難いわね。漸くの事春になって」宗助の苦悶を知る由もなく晴れ晴れした顔付の御米。
「うん、然し又じき冬になるよ」御米の顔を見ずに答える宗助。
平行線のまま、何も解決せず、しかし大きな波乱も無く、坦々と繰り返される日々を予期させて終わる物語。
そうそう崩れはしないだろうに、漠然とした不安の影を落とす「崖の下」で暮らすふたりの物語。

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この「門」のふたりの物語が、「崖の上のポニョ」のふたりの、「その後の物語」を示唆しているとしたら?

宗介への無邪気で純粋な愛ゆえに、嵐を巻き起こしながら人間界に押し掛け、街を水没させた挙げ句に自らの想いをまっとうした「おそれない女」であるポニョ。
「おそれない男」に見える宗介も、成長するにつれ、幼い時分には気付かなかった「愛を貫いたために犠牲にしてしまった人々への罪」に苛まれることになるのは明白です(私の解釈ではリサもおばあちゃん達も含め街の人々はあの嵐で亡くなってしまったことになっているので)。

そして恐らく、ふたりの間に子供はできないのではないでしょうか。これは何の根拠もありませんが、漠然と、映画のラストを見ていて「門」とは関係なく感じた事です。ここは自分の嗅覚を信じることにして、ふたりは一生ふたりきりで暮らしていくと予想します。

そこから見えてくるのは、「門」のような翳りのある幸せを必至に守りながら、過去の過ちに怯えて生きるポニョと宗介の姿です。これを良い人生とするか否かは、その人の人生観によるでしょう。

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が!!!!!!
宮崎監督は、この哀しい未来に「否!」と、既に言っているのではなかろうか!

「門」では崖の下に住んでいる宗助、「ポニョ」では崖の上に住んでいる。
「門」では繰り返し崖の下の暮らしの描写がなされ、物語にとって重要な舞台装置として機能している。宮崎監督がこの作品からインスピレーションを得ている事は明白であるのに、敢えて舞台を「崖の上」に移している。その「崖の上」は、「門」に於いて屈託の無い幸せの象徴として描かれているのです。

そして「そうすけ」の名を「宗助」から「宗介」に、敢えて変更している。
「助」の文字はたすける、力を貸す、の意。しかし変更後の「介」の文字は、そこに「仲立ちする」の意味がプラスされます。宗介は宗助と違い、自分とポニョ、そして自分たちと社会との仲を取り持って、雄々しく生きていく力を備えているんだ、というメッセージとして受け取れないでしょうか。

(映画にとって重要な、作品タイトルと主人公の名前に「門」からの影響があることは間違いないので、この位は言い切ってしまってもいいと思う)


即ち宮崎監督は、「門」に描かれている様な哀しい出来事は「ポニョ」のふたりには訪れない!全然大丈夫!むしろ幸せ!罪とかどうでもいいっしょ!だから子供たちよ、恐れるな!!想いのままに突き進めー!!と言いたかったのではないかと、私はこのように考える訳です。



…結局、穿った見方をしなくても普通に映画を見ていれば辿り着く結論に帰着したという…………………。






080915


日本語を解する世界の皆様、ついに国内2000万人を越えたという70歳以上のレディースエンジェントルメンの皆様、どうもこんにちは。今日はファッションの話題で行ってみよう。


早速ですが、今年とうとう、ファリエロ・サルティのストールを入手しますた!!!

如何に巻物(NARUTOじゃない方)好きの私と言えども「ぐるぐる巻き付けるだけの布切れに3万超って!あるあr…ねーよwww」だったわけですが、品質・デザイン・お値段に於いてピンからキリ手前まで巻物を買い集めていった結果、登場頻度ランキング上位は軒並み「けっこういいお値段」の手練共!

そもそも「多少値段が張っても長く使える・長く使いたいものを」というコンセプトで買い物をするタチであるからして、ここらでひとついいものを買っても罰は当たらないのではないか。とか何とかいつもの言い訳をしながら小心者らしく定番のサルティに決めた次第です。

ついつい「色は…やっぱ黒…ハァハァ」とよろけそうなところをグッと堪えて、肌映りも良さそうなグレーベージュをチョイス。冬は特に全身真っ黒コーディネートになりがちなので、これでストールも黒だと夜道などではナチュラル光学迷彩野郎になってしまうんだぜ。


マイクロモダール90%・カシミア10%のその手触りは、天女の羽衣の如きふわふわ具合。そして適当に巻き付けても様になる総丈192cm。空気を含んでホカホカと暖かく(今時期暑い)、締め付け感・ゴワゴワ感ゼロときたもんだ。コンサバモテOLさん的ファッションからは程遠いモード系な私でありますが、何にでも合いそうです。こいつぁいい買い物をしたとマチコ巻きでほくそ笑んでいたところ…

あれ?何かに似てる。
このふわふわ感、手に吸い付くしっとり具合、柔らかな繊維が交錯するパターン、更にこのえも言われぬ幸福感は…

ちょwww テラおぼろ昆布wwwww おかーさーん!


(ちなみに、nitcaAccessorizeのもプチプラでかわいいのでドススメ。)





080912



いや~、暑いんだか寒いんだか分かんないっすね。
今日は真っ昼間に美容院へ行ってきたんですが、NHKの天気予報で仕入れた「今日は30度越えの残暑」情報なぞ完無視して五分袖ニットワンピとロングブーツで表参道に降り立ってやりました。一度シーズンを越えた装いをしたら後には引かぬ!!!!あちーマジで。

…とファッション繋がりでH&Mなんかの話題に行くと見せかけて「あしたのジョー」考をお送りします。


本当に恥ずかしながら「あしたのジョー」を初めて読んだのです(電車でバッグから取り出すと視線が痛い)。全20巻一気に読破しましたが、うーん…そりゃぁ面白かった。圧倒されるというか、置いてけぼりを食らうというか、読者を突き放すような作品でした。もちろんいい意味で。
以下、「あしたのジョー」の魅力についてヘボヘボながらも考えてみます。


「ボクシングマンガ」というと「はじめの一歩」世代の私。連載開始時からマガジン本誌で愛読し、最近は単行本で目から汁が出るほど楽しませて頂いています。ご存知のように「はじめの一歩」もイマドキのマンガにしては相当ドロ臭くてその熱量に圧倒される作品ですが、「あしたのジョー」はそれとはまた全然別の、ギラギラした輝きが溢れている。

数ヶ月前、CSのヒストリーチャンネルで放映していた「ニュース映画で見る昭和」というシリーズ番組を見て大変なショックを受けたのですが、「あしたのジョー」を読んでその衝撃が胸に甦り、更にその作品世界に入り込むことができました。ヒスチャングッジョブ。「ニュース映画で…」を簡単に説明すると、日本激動の高度成長期に於ける政治・経済・商業の発展やそれに伴う様々な問題、庶民の暮らしぶりや都市の様子などなどを、豊富かつ貴重な映像で詳らかに見せてくれるドキュメンタリー番組です。

その番組で見た昭和の日本は、私が見たことの無い日本でした。人々は貧しくて、無知で、粗野で、みすぼらしくて、けれどもそれを補って余ある荒々しいパワーを放出し、ぶつかり合い、国家権力と戦い、敗戦国である自国を経済大国に押し上げていく程の計り知れない「熱」が、陽炎のように立ちのぼっている。現代の取り澄ましたおりこうで気の弱い日本人のイメージからはほど遠い…!

「あしたのジョー」はそんな時代の人々に愛されたマンガなのだという事実。当時の人々は、明日をも知れないみなしごで乱暴者のジョー、胸にこびりついた孤独を掻き消すようにリングに上がり、無謀だと言われる戦いばかりに挑み続けるジョーに自分たちの姿を重ね、心の支えにしたのでしょう。泪橋を逆に渡る日、栄光を手にする日を夢見て。我らが日本は正にジョーのように、暗中模索・やぶれかぶれで今日に辿り着いたのです。


また、主人公ジョーの心情が推し量れるようなモノローグはほとんど無く、読者はその不可解な行動に只ひたすら「ど、どうなっちゃうんだろう?!」と翻弄されるばかり。最後の最後まで、正体不明のヒーローであり続けるのです。周囲の人間のみならず、読者の感情移入すら許さない程の、ジョーの孤独。武士は食わねど高楊枝。なんだか寂しくなってしまうが、なんてカッコいいんだ!と思わずにいられない。リアルタイムで読者だったなら、こんな風に生きたい!と奮い立っていたに違いない。

しかもジョーは、かわいい。私は男の人特有の意味不明の強情さだとか無鉄砲さに出くわすにつけ「しょうがないなあ」という言葉が口をついて出てくるのですが、これは諦めと愛情の言葉。どんなに強いボクサーになってもいつも体育座りでうつむくジョーを見ると、しょうがないなあ大丈夫だよと背中を撫でてあげたくなる。
でもジョーは私達を置いてけぼりに、自分だけを見つめて、自分の思うままに燃え尽きてしまう。あっけに取られる。


という観点から「はじめの一歩」を考えてみると、非常に親切で分かりやすく、感情移入しやすいことこの上ない。魅力的な登場人物たちや彼らの闘いぶりを丁寧に丁寧に描き、読者に対して彼らと共に泣き笑うことを許している。一歩は暖かい仲間と共に、現代に生きているのだから、同じように恵まれた現代に生きる私達が感情移入しやすくて当然だ。実際私は「あしたのジョー」では興奮こそすれ泣けなかったが、「はじめの一歩」では何度も何度も泣かされた。数々の名ファイトを思い出すだけで、胸がふるふるしてくる。

しかし「あしたのジョー」に代表される往年の名作マンガは大概、怒濤のストーリー展開で非常にスピーディー、そして突然物語は終焉を迎え、多くを語らず読者の想像に委ねる。現代の若者たちは、「あしたのジョー」を読んで興奮し、面白いと思うのだろうか?思わないのだとすれば、親切に一から十まで説明され、どうも初めまして私はこういう者ですと暖かく迎え入れられることに慣れすぎてしまったということなのだろうか。所謂「想像力の欠如」というやつ。

毎日垂れ流しにされるアホみたいなニュースを聞くにつけ、いつからか「想像力の欠如」という言葉ばかりが浮かぶのです。想像してごらん!想像できる??とは早過ぎた変態天才岡村ちゃんの名台詞ですが、本当にそう。他者について、自分について、世界について、もっと想像してごらんよと。モンスターペアレントだの政治家だの自殺する人だの他殺する人だのマスコミだのの皆さんさあ。


おかゆのような柔らかいものばかり食べていると、胃はそれ以上硬い食物を消化吸収できなくなってしまうと言いますが、それと同じような現象が現代日本人に起こっているのかも。私も「あしたのジョー」のような手強い食べ物を消化できなくなってしまわないように、用心して生きていかなければ…。だってすごい栄養を与えてくれる作品なんですから、もったいないでしょ。

「立て!立つんだ日本人!」と、段平おやじがリングサイドで叫んでいる気がする。気のせいかもだけど。