
リーマンご兄弟のお陰でCNNが面白くて仕様がない昨今ですが、皆さん如何お過ごしでしょうか。サブプライムローン問題から派生した一連の事件で、アメリカ人のいい加減さがついに世界に露呈してしまいましたねぇ。経済は特に用語や理論が難解でつい見過ごしてしまうジャンルなので、こういったキャッチーな出来事が起こることで興味が湧いて理解が深まるきっかけになる、という有り難い側面もありますな。
などと言いながら、ここ数日そんなバタ臭さとは無縁の純文学を読み耽っておりました。
今日はその中から夏目漱石著「門」をネタに、宮崎駿監督「崖の上のポニョ」を考えてみようと思います。
「ポニョ」と言えばご存知の通り、「ポニョ=暗黒神話説」や「ポニョ=クトゥルー神話説」、はたまた怒濤の作画やトンデモストーリーw について等々、巷を騒がせていますね。で、そっちはその方面に強い方々の分析を楽しんで頂くことにして、詳しいとは言えないまでも心から愛して止まない純文学方面から攻めてみよーという試みです。
と言うのも、「ハウルの動く城」を完成させた宮崎監督は次回作の構想に向けて夏目漱石全集を手に入れ、熟読し、そうして完成した映画が「崖の上」に住む「宗介」が主人公の物語「ポニョ」だったから。
そして夏目漱石の作品「門」は、「崖の下」に住む「宗助」が主人公の物語。
昔から「ゲド戦記」を常に持ち歩いて、作品づくりに行き詰まったらアイデアソースとしてページを繰っているという宮崎監督なのだから、「門」からも意識的・無意識的にインスピレーションを得ていたと考えても不自然ではない筈。
また、宮崎監督ご自身からの「ポニョ」紹介にある「さかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語。同時に、5歳の宗介が約束を守りぬく物語でもある。(中略)神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである。」という文章。
そして夏目漱石こそ、「神経症と不安の時代」に立ち向かい、人間の抱える根源的な矛盾や罪を暴き、如何に生きるべきか?と問い続け、苦しみながら多数の名作を遺していった物語作家であることに疑念を差し挟む余地は無い。
この偶然とは思えない符合に、こいつぁジブリ&漱石好きとしては黙ってられないだろう!と、「ポニョ」観賞後その材料を持って「門」を読んでみたという訳です。まあ恐らく「程度の過ぎる深読み」なんだろうと思いますが、ひねくれちまった大人ならではのお楽しみ、ということで…。
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さて、では「門」のあらすじをまとめてみましょう。(当然ネタバレ含みますのでご了承ください)
・主人公は崖の下に住む「宗助」とその妻「御米」。
・宗助はかつて親友であった「安井」を裏切り、安井の妻であった御米と結ばれた。
・闊達で若者らしい情熱に溢れていた宗助は、その事件以来、すっかり人が変わってしまった。
・宗助と御米はその罪に今も苛まれ、社会に対する積極性を失い、ひっそりと暮らしている。
・その反動から、互い強く必要とし、切り離されては生きられないものとして、非常に仲睦まじい夫婦である。
・宗助と御米の間には、3度の流産の末、子供がない。御米はそれを「天罰」だと考え嘆いている。
・度々の流産で体を痛めた御米は、薬を飲んでいつ目が覚めるのか分からない程眠り込んでしまうことがある。
・漸く過去に犯した「罪」の残した傷が治癒しかけた頃、宗助は偶然、近しい者から安井の名を耳にする。
・前後不覚になるほど狼狽し神経衰弱に陥った宗助は、宗教に助けを求めて禅寺の門を叩く。
・その際、御米の心身を気遣って安井のことは隠している。
・老師の教えに従って修行に励んでみるものの、何の悟りも救いも得られないまま帰宅の途につく。
・安井との接触の危険も去り、宗助と御米は平穏な日常に戻っていく。
すんごくザックリかいつまむと、こんなお話です。「御米」は「おこめ」じゃなくて「およね」です。
煌めきや鮮やかな色調を失い、くすんだ世界で紡がれる、静かで単調な物語。「ポニョ」で描かれる、希望や生命の躍動感に溢れる愛すべき世界とは対照的です。
注意したいのは、漱石作品には珍しく、主人公夫妻の仲が非常に睦まじいという点。揃って縁に座って秋の月を眺めてみたり、毎夜火鉢を挟んでその日の出来事を話し合ったり。一人で通りを歩く時には嘗てふたり一緒に同じ場所を歩いた時のことを思い浮かべてみたり、一人が病に倒れれば何も手に付かない程心配したり…羨ましくなってしまう程、互いを大切に思っている様子が伝わってきます。
しかしそれはふたりが社会から疎外された結果、伸ばす手の向かう先が、互いの心にしか見出せない為。広く外界へ伸びない代わりに、深く内側へ伸びた為。強く結ばれたふたりの絆には、そんな翳りが付きまとうのです。
そしてこのふたりは、実際の所、過去に犯した罪からくる苦しみを、分ち合えている訳では無いのです。
漱石作品に毎度と言っても良いくらい登場する「おそれる男」と「おそれない女」の形が、ここでも当て嵌まります。
ある日、御米は「今まで言おう言おうとして言えなかったことを告白する」として、3度の流産の後に耐えきれず迷い込んだ易者から言い渡された不吉な予言…二度と子供はできないだろう、あなたの過去に犯した罪のせいでできないだろう、という悲しい予言を宗助に打ち明け、さめざめと涙を流す。この告白を遂げることができる御米は、「おそれない女」と言えるでしょう。
一方、ふたりの罪を懺悔すべき対象である安井とのニアミスによって震え上がり、自分をどこまでも追いかけて来るかの様な運命の恐ろしさに耐えかねて、取る物も取り敢えず、御米にもなにも告げず、禅寺に入ってしまう宗助は、「おそれる男」と言える。
特に、それらの事件未満の事件を越えて春を迎えるエンディングでのふたりの遣り取りが象徴的です。
「本当に有難いわね。漸くの事春になって」宗助の苦悶を知る由もなく晴れ晴れした顔付の御米。
「うん、然し又じき冬になるよ」御米の顔を見ずに答える宗助。
平行線のまま、何も解決せず、しかし大きな波乱も無く、坦々と繰り返される日々を予期させて終わる物語。
そうそう崩れはしないだろうに、漠然とした不安の影を落とす「崖の下」で暮らすふたりの物語。
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この「門」のふたりの物語が、「崖の上のポニョ」のふたりの、「その後の物語」を示唆しているとしたら?
宗介への無邪気で純粋な愛ゆえに、嵐を巻き起こしながら人間界に押し掛け、街を水没させた挙げ句に自らの想いをまっとうした「おそれない女」であるポニョ。
「おそれない男」に見える宗介も、成長するにつれ、幼い時分には気付かなかった「愛を貫いたために犠牲にしてしまった人々への罪」に苛まれることになるのは明白です(私の解釈ではリサもおばあちゃん達も含め街の人々はあの嵐で亡くなってしまったことになっているので)。
そして恐らく、ふたりの間に子供はできないのではないでしょうか。これは何の根拠もありませんが、漠然と、映画のラストを見ていて「門」とは関係なく感じた事です。ここは自分の嗅覚を信じることにして、ふたりは一生ふたりきりで暮らしていくと予想します。
そこから見えてくるのは、「門」のような翳りのある幸せを必至に守りながら、過去の過ちに怯えて生きるポニョと宗介の姿です。これを良い人生とするか否かは、その人の人生観によるでしょう。
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が!!!!!!
宮崎監督は、この哀しい未来に「否!」と、既に言っているのではなかろうか!
「門」では崖の下に住んでいる宗助、「ポニョ」では崖の上に住んでいる。
「門」では繰り返し崖の下の暮らしの描写がなされ、物語にとって重要な舞台装置として機能している。宮崎監督がこの作品からインスピレーションを得ている事は明白であるのに、敢えて舞台を「崖の上」に移している。その「崖の上」は、「門」に於いて屈託の無い幸せの象徴として描かれているのです。
そして「そうすけ」の名を「宗助」から「宗介」に、敢えて変更している。
「助」の文字はたすける、力を貸す、の意。しかし変更後の「介」の文字は、そこに「仲立ちする」の意味がプラスされます。宗介は宗助と違い、自分とポニョ、そして自分たちと社会との仲を取り持って、雄々しく生きていく力を備えているんだ、というメッセージとして受け取れないでしょうか。
(映画にとって重要な、作品タイトルと主人公の名前に「門」からの影響があることは間違いないので、この位は言い切ってしまってもいいと思う)
即ち宮崎監督は、「門」に描かれている様な哀しい出来事は「ポニョ」のふたりには訪れない!全然大丈夫!むしろ幸せ!罪とかどうでもいいっしょ!だから子供たちよ、恐れるな!!想いのままに突き進めー!!と言いたかったのではないかと、私はこのように考える訳です。
…結局、穿った見方をしなくても普通に映画を見ていれば辿り着く結論に帰着したという…………………。