中学3年生から37歳まで、私は日記をつけていた。

クローゼットの奥深くに閉まってある。

 

殆ど読み返したことはない。

歳を取って、自分の人生を振り返るような時があったら、読み返すのかと思っていたけれど、そんな日はやってこない気がする。

 

病気になって余命1年とか言われたら読み返すかもしれない。

 

それなら何のためにつけているのか…いたのか…

 

生きている年数が増えれば増えるほど、記憶は曖昧になっていく。

前後がよく分からない。

そんな時、思うのだ。

日記を読み返せば分かる。

そして、放置する。

 

過去のある時期を思い出そうとして、記憶が曖昧な時、それが37歳以前のことだったら、日記を読み返せば分かる。と妙に安心して放置する。

 

しかし、それが38歳以降のことだと、もう思い出す術はないのだと、残念に思う。

日記をつけておけば良かった。

 

でも実際は、読み返したところで、きちんと書いてあるとも思えない。

 

私が日記を読み返すことができない理由は、ふたつ。

 

一つは、自分の字が美しくないので、読みたい気持ちになれない。

もう一つは、ある時期の辛い経験を、まだ振り返る気になれない。事実の文字や文章が目に飛び込んでくるのが怖いのだ。

 

それなら日記は何のためにつけるのだろう?

 

もちろん、自分自身のため。

 

自分の心の中のやり場のない気持ちを、文字にして整理することは価値のある作業だと思う。

 

日記を書かない人でも、その時の気持ちを親友に話す、つまり言葉にして外に出すことで、頭と心の整理をする。

それと同じこと。

 

ただ、違いは、親友の記憶に残っているだけか、はたまた、ノートとして家に残っているか。

 

やはり、ある時期には、読み返して(読み返さなくてもいいのかもしれないが)自分で断捨離するべきノートでもある。