秋に地元の高校の演劇大会を拝見し、今回は関東大会がラッキーにもお隣、茅野で行われることになった。
昨日今日と茅野会場で公演が行われていたが、今回は都合で2公演しか拝見できなかった。
東京都立東高等学校 「僕の父には名前がない」
長野県木曽青峰高等学校 「お前に自転車の乗り方を」
この2つの芝居を拝見した。
どちらも素晴らしかった。
役者の力では、木曽青峰高校は少々劣るが、
難しいセリフをきちんと言うことを心がけていたし、
何よりも原子力発電の事故を扱っていたので、
私としては、是非ともやり続けて欲しい作品である。
そもそも私が今も劇団で執筆を続けていたら間違いなく書いていたテーマのひとつである。
細かいことを書いても見ていない人にはちんぷんかんぷんなので、
今回この2つの芝居を見て、最近の演劇の傾向と感じさせられたことを書く。
演劇というのは、映像と比べると遥かに役者のモノだった。
映画は監督のモノ、舞台は役者のモノ
ところが、舞台も演出家のものになりつつあるのかと感じさせられた。
脚本ありきは変わらない。これが土台で一番重要。
そして演出の力によってコマとして動かされている役者たち。
どちらも役者が一人何役も演じていた。
それを成立させるための衣装替え、セット替え、照明使いなど駆使しているわけだけれど、
それは全て演出家の力によるモノだ。
都立東高校の演出は見事だった。
5人の役者は、毅役の子がちょっと抜けたものがあったが、基本的には同レベル
それぞれ言われたことをとても良く演じているといった印象を受けた。
セットは多くのパイプ椅子。この使い方はとても良かった。
パイプ椅子も嫌な音のするモノではなく優れていた。
いじめやリンチなど暗いシーンがあるのだけれど、
そこは照明でほとんど顔を見せない。いいと思う。
衣装替え、シーン替え、すべてよく稽古されていて素晴らしかった。
それに比べると木曽青峰高校は、衣装替えなどちょっと適当にごまかした部分もあったが、
セットはセンスがあったし、しっかり作られていた。
4人ではなく、もう少し多くの役者で演じて欲しいと感じさせてしまったのも、
シーン替えなどがうまくいっていない箇所があったから。
メインの家族をもう少し際立たせるために、せめて倍くらいの人数で演じた方がいいと思うが、
高校演劇部の部員数の問題だろうか?
そもそも役者の仕事は、「ある役という人物を生きること」
でも何役もあると、それをやっている時間はない。
生の舞台だから、ある意味、切り替えてやるわけだけど、
これほど多くの役をやって、瞬時に役が変わる場合は、役の人生を演じている余裕はない。
つまり、演出家の意向通りに動く。
ついでに、ダンスのような動きが入っていたりするので、これはもう集団劇。
役者に、きちんと役作りを要求する私としてはちょっと寂しいものがある。
もう1つは、役者が無闇やたらに動きながらセリフを吐く傾向がある。
これも演出だろう。
例えば、都立東高校で、いじめられて殺されてしまった男の子が、
その顛末を語るシーンでは、一人で闇雲に体を動かして長セリフを喋る。
じっとしてセリフを吐くことができないからつける演出もあるが、
このシーンについては違うだろう。
これも最近の演劇の傾向と感じられる。
本当は役者は、あらゆる無駄を省いて最終的に舞台に乗るものなので、
これも純粋な役作りを考える役者側から考えると寂しく感じられる。
しかし、これが最近の演劇のひとつの傾向であることは間違い無いと思う。
願わくば、
いくつもの役をこなしても、メインの役はあるわけだし、
集団劇だとしても、それぞれ人間なわけだから、
せめてメインの役だけでも、魂のある人間として演じられるように心がけて欲しい。
集団劇というと蜷川幸雄さんを思い出すが、
彼は、いつも役者を一人ずつしっかり見てくれる素晴らしい人だった。
つまり一人ずつの役者が、彼の演出の道具(コマ)になることはなかった。
そういう意味でも、尊敬できる演出家だった。
今後も地元諏訪地区の高校演劇を見守っていきたいと思っている。
今回は、地元以外の素晴らしい演劇を拝見できてラッキーだった。