先日来、たまに戯曲を買いに来てくださる人が居るので、
今時間がある時に……と、戯曲の構成を変更したりして
商品を充実させる作業をしている。

ぐる~ぷSTING 戯曲SHOP

構成を変えると同時に、
やはり以前書いたものなので、
少し手を加えてもいいかと思っている。
というのは、少しずつ古くなっていくのだ。
少しでも手を加えるのならば、校正する必要もある。
ということで、
結局は、一本ずつ、最初から読み直しながら手を加えている。

以前書いた戯曲を読み直す作業だ。
面白いもので、
役者がうまく演じてくれたセリフは、
必ずその役者の声で、
その役者のトーンでセリフが記憶としてよみがえってくる。
逆に、無意識ではあるが、
多分、自分で書いたものを実際に演じられたものに多少のギャップがあったのだろう。
そもそも自分が書いたイメージで音が生まれてくることもある。
初めて、ああ、こういうことだったのだと
我ながら気づかされることもある。

一本の戯曲を読み直し、
構成を変えつつ、校正するのに
どのくらいの時間がかかっているのか分からないが、
一本を終えると、私はすっかりその戯曲の世界に入り込んでいることに気付く。

昨日は、クラムドキッチン という作品を読み返していたのだが、
2009年に上演した時の雰囲気も現れたし、
多少なりとも違った世界観も広がった。
そして、その世界観は、私の脳の中をその後も数時間存在する。
それはそれはリアルに、私はその世界に飛んでいるのだと感じるのだ。

そもそも本というのはそういうモノ。
私は、本を書くのはあまり得意ではないが、
舞台の戯曲(シナリオ)を20本以上書いて上演してきた。
戯曲というのは、基本的にセリフしか出てこない書物。
説明がない分、理解が難しい。

例えば、
小説だったら。

「そう言ったじゃない!」と彼女は目に涙を一杯浮かべて叫んだ。

とか書いたりするところを、
戯曲だと

ユリア「そう言ったじゃない!」

だけになる。

どうやって理解するかは、
それまでの流れで、ユリアという人物の性格を読み取り、
その前後のセリフなどの流れで、
彼女は、泣いているのか、怒っているのか、笑っているのか、
叫ぶのか、どこを見ているのか、誰に言うのか、
それらのことを理解しなければならない。

つまり行間を読むという奴だが、
小説よりも説明文が少ない分、理解は難しい。 と私は思っている。
かなり難しい書物だ。

更に、戯曲というものを読みなれていない人には、
その独特の書き方(セリフばかりで、他にはわずかなト書があるだけ)のために
読むのも苦労するのかもしれない。
ということで、基本的に戯曲という書物は、
芝居を作る側の人間にしか読まれていないと言っていいだろう。

結果として、書物としては売れない。
売れないと本屋さんには並ばない。

東京の大手書店でも、
戯曲のコーナーは、本棚ひとつかふたつ。
そして、有名な数人の戯曲しか置かれていない。

図書館はもっと少ないかもしれない。
本棚ひとつは埋まらない。

だから、私が書いてきた戯曲も
書物としては売り物になりにくい。
だから、ぐる~ぷSTINGの販売という形しかないわけです。

ただ、折角だから、いい作品を上演して貰えたらいいなと思ってネット販売をしている。
実際、読み返してみるとめちゃくちゃ面白い。
果たして、それを芝居化した時に、面白くできるかどうかはまた別問題だが、
大切なのは、その世界観を舞台に乗せること。
2次元の世界を3次元化すること。
これほど面白いことはないのかもしれない。

もう40年近く(学生の時も入れると)芝居畑の私からすると、
戯曲(シナリオ)を読んだことが全くない人がたくさんいることに驚かされるが、
逆に言うと、
芝居に何のかかわりもない人が、戯曲というものを書物のひとつとして読んだ時に、
果たして楽しめるのかどうかも気になる。

漫画や映画のように映像があるものよりも、
活字しかない方が、世界観は広がるものだ。
だから、読書をする。
その活字からイメージを広げていく力が近年読書をしない若者たちから失われていった。

それこそ始めるのはいくつでもいいのだと思う。
年とっても出来ることだから。
読書という素敵な事を、やらないなんて人生損しすぎだ。

読書をする。
目が疲れる。
時々、ふぅ~っと息をはいて、本から目を離す。
出来たら庭の自然が目に入ってきたい(庭ないんだけど、今は)
そしてそこに本の中の世界が広がる。
それはそれは素敵な時間。

晴耕雨読。
これが私の今の人生目標なのです。