5月2日 18時から 首相官邸前で、川内原発再稼働反対、原発ゼロのための抗議活動があると知ったのは、1月来始めたツィッターでのことだった。
それまでも脱原発という意見をこのブログでも書いたことはある。
選挙に行けば、当然、脱原発の人に投票する。でも、とにかくデモとか、抗議活動とか、そういったモノに参加したことは一度もなかった。
ツィッターをやっているうちに、脱原発の活動を積極的にやっている人たちとつながることが急速に増えて行った。気になるのは、ツィッターをやらなければ、ほとんど知ることが出来なかったということ。
たまたま私はこの日、日比谷公園に居て、東電本社を眺めていた。

天気もいいので、そこから国会議事堂に向かって歩いて行った。17時。道のあちらこちらで、原発反対!などのノボリを持っている人たちがいる。チラシ、資料などを配布したりしている
それを受け取り、少し離れたところで、資料を読みながら18時を待つことにする。
彼らを見て感じたこと。(なるだけ客観性を持って見るように心がけて出かけた)
ノボリが手作りだったりするせいか、歳を取っている人が多かったせいか、一部の人は、ホームレスに見える。そしてまた一部の人は、危ない宗教の人たちにも見える。
しかし、大きな違いは、誰も積極的に誘ってはこないことだ。
更に進む、いろいろな形で原発反対を訴えてはいるが、誰も彼も自分の意見を発しているだけで、取り込もうという雰囲気は感じられない。だから嫌みがない
そんな個々の活動を見る私の目には時々涙が溢れた。小さな力が、個々に頑張っているという印象。この小さな力は、ひとつになるのだろうか?
とりあえず18時までと思って、いろいろ観察していた。
首相官邸前には、警察官を乗せたバスが何台も停車していたが、18時少し前になると、パラパラと警察官の姿が現れる。そこここに、警察官が立つ。デモや抗議行動は、事前に知らせているので、こうして警察がいるのだということも、私にとっては、初めての経験。
18時ピッタリ。原発反対のシュプレヒコールが、国会議事堂の建物に反響して聞こえてくる。私が立っていた場所からだと、首相官邸方向からではなく、国会議事堂側から聞こえてきた。
私は、ゆっくり先ほども登った道を歩き、首相官邸方向へ進む。歩道は半分が、赤と白の三角ポールで仕切られ、歩行者を妨げないようになっている。しばらく進み、程よい所で、私はポールの中側に入り、首相官邸の方向に正対する。
建物は見えないが、リーダーの声が、スピーカーを通して聞こえてくる。それに呼応する人びと。私はなかなか声が出ない。出せない。さきほど貰った資料を握りしめ、ただ、官邸方向を見つめている。時折涙がこぼれる。
何故?
小さいのだ。ひとりひとりの力があまりにも小さいのだ。
官邸や国会議事堂や、さっき通過してきた霞が関のビル群から見下ろしたら、この小さな力の集まりはどう見えるのだろう? この日、3000人が集まったと言われている。
私にとって、デモというモノは、ほとんど無縁の存在だった。祝日によくおこなわれるデモ活動によって、交通マヒが起こされるのがちょっと迷惑だったくらい。今回も参加するかどうか考えている時、もしかしてお祭りみたいなものなのではないか? 自分の気持ちが高揚して、そのことで満足して楽しめる時間なのではないか? ま、それはそれでいいのだが……と。
実際に、ポールの中に入って、ただ、官邸方向を向いていた私は、その内、スピーカーから聞こえる言葉に呼応する。きちんと意味をとらえられるモノから。
まず「川内原発再稼働反対!」 このために来たのだ。最初の原発を再稼働させたら、次もその次も芋づる式だ。
次に、原発反対! 原発廃炉! 原発売るな!
その内、すべての言葉が、私の身体にスーッと入ってくる。
リーダー(呼び方が分からず)は、男性と女性の声で、15分おきに交代する。女性の方が少しスピードがUPする。男性は穏やかな声で、女性は革命的な声だ。どちらの声にも力と説得力がある。そう、説得力がある美しい声だ。その声を聴くためだけでも、そこに立っている意味はある。ついでに、一緒に叫んでしまえば、もっと意味がある。自分という小さな人間の力が、少しだけ影響力を持って、そこにいることになれる。
抗議活動をしている長い列の横を通過して、国会議事堂前駅から電車に乗る歩行者がいる。ここをこの時間に無表情で通過するのだから、この近辺に勤める人たちだろうか? それなら最低でも毎金曜日、この抗議活動を見て、聞いているはずだ。だからあんなに無表情なの? 原発STOPのために熱く大声を張り上げている人に比べて、あの無表情な人たちは、一種奇妙だ。人間の感情を押し込めてしまったかのような無反応ぶり。そしてすぐそばに立っている警察官。彼は仕事だから、そこにいるわけで、歩行者に迷惑が掛からないか?その他危険なことが起こらないか監視しているだろうが、2時間ずーっとそこにいて、心は動かないのだろうか? 動いているけど、仕事上反応できないから仕方がないのだろうか? 心が動いたら、うっかり口元が一緒に動いてしまったりしないのだろうか? うっかりではなく、本当は原発なんかないにこしたことはないと思っているのだから、こちら側に行きたいと思っているのだろうか? そんなことを考えながら、赤と白のポールのこちら側とあちら側にいる人たち、どちらがより人間らしいかというと、間違いなく叫んでいる人たちだったのだ。
日本はとかく、長いモノには巻かれろ、精神。少数派は、変な人たちに見える。最初に書いたように、ノボリを持って一見浮浪者に見える小さな団体は、変人の集まりにされてしまう。マジョリティーにならなければ、正当化されにくい。
この抗議活動に行くきっかけのひとつは、先日の台湾の原発反対デモ、そしてその結果、政府が原発建設凍結を決定。あれだけの人数が集まれば、世論の力で政府を動かせる。日本もそうあって欲しいと望んでいます。
ツィッターで知った原発反対の運動は各地で行われています。その先頭に立って、声を上げている人たち。その周囲で出来ることを積み上げている人たち。その誰もが、整然と声を上げている。誰にも意見を押し付けず、自分の意見を発信し続ける。そして今回100回だったように、継続している。【継続は力なり】 私の座右の銘です。
「100回もこんなことやらせるな!」 100回言っても分からない今の首相だけれど、平和ボケしていない純粋でエネルギーのある日本人がまだまだたくさんいるはずだから、この潮流は今後もっともっと大きなうねりになるはず。
ただ、私が今焦るのは、この3年止まった原発の再稼働が(政府の目論見だと)近いこと。東京都知事選でも、鹿児島補選でも自民が勝ち、脱原発派が、まだその力を発揮しきれていないこと。続ける事に意味はあるけど、遅れてはいけないとも思う。ひとつが稼働したら……考えただけでも恐ろしい。
現場は、夕方から夜まで叫び続けていました。
あの場所に居て、心が動かない人がいたら、やはりそれが問題なのだと思う。どんなことでもマンネリ化してはいけない。自分の五感を使って考えてみれば分かるはずだ! ここで起きていること、福島の現実、目や耳を閉じずにきちんと考えれば、足は自然と官邸前に進み、帰るに帰れなくなる。誰かのためではなく、自分の中に湧き上がった感情に素直に。それが結果として地球の未来のためになることなのだと思います。





