中学の文化祭でカフェテリアをやった。
その時の収入を、当時なぜかクラスで流行っていた(話題になっていたのではなく、本当に流行っていたのだ)
バングラディッシュに募金することに決まった。
私はクラスの代表として、友人とバングラディッシュ大使館にお金を持って出かけた。
バングラディッシュ大使館の日本人女性に言われた。
「お金を送金しても本当に貧しい人には届きませんから、募金しても無駄なんですよ」
結局、そのお金をどうしたのかは覚えていない。
が、
それをきっかけに私は路上募金を一切しないことにした。
義捐金のような形で、赤十字や市区県にお金を寄付することは時々するが、
路上募金はしないと心に決めている。
なぜなら、どれが正しくてどれが正しくないか判断できないからだ。
実際、偽物などの事件もあった。
昨日駅前を通過したら、募金をしていた。
左側からマイクのようなモノを使用した人がコメントしていた。
「難病の子どもたちの院内学習の……」
それだけしか聞き取れないうちに、その前を通過していた。
通過する時に、募金箱に掛かれた文字を見た。
「難病の子ども……」しか読めなかった。
それが私の歩速だ。
署名運動などは、時々参加するので、
なんの募金なのか、
なんのアクションなのか、
軽くチェックは入れるのだ。
通過する直前のこと、
今度は右側から声が聞こえた。
「よろしくおねがいします」
それは、募金箱を持った年配の女性の声だった。
聞き終わった時には、すでに通過していたが、
心に残った。
その声は、とてもリアルだった。
形ではなく、リアルな響きだった。
「よろしくお願いします」
お願いされたように感じた。
足が止まった。
躊躇はなかった。
財布から小銭を取り出して、戻っていくと。
その人は、すでにそんな私の様子に気づいていて、
こちらを向いていた。
箱に小銭をコトンと入れた。
「ありがとうございます」
恥ずかしいので、すぐにそこから離れた目的地に向かった。
しかし心が晴れなかった。
通常、誰かのためになれば、ハッピーな気分になれるのに、
なれなかった。
少なすぎたのではないかと思ったのだ。
小銭ではなく、お札にするべきだった……。
路上募金には協力しないという私の数十年のルールが打ち破られた瞬間だった。
心を動かされた。
少なすぎたのではないかと考え、涙が出た。
用事を済ませたら、もう一度あそこに行こうと心に決めた。
まだ彼女は居るだろうか?
実際、2時間後に私はそこに戻るのだが、
彼女はもういなかった。
募金をしたり、寄付をしたり、誰かに手を貸す時、
私たちは、誰かに何かを差し上げたのではなく、
逆に何かをもらったのだ。
だから、少しだけハッピーな気分になれる。
その日一日ハッピーに過ごせる。
これからは、路上募金にも少し協力できるかもしれない。
しかし、
お金を入れた後の、あの居心地の悪さは何とかならないだろうか?
電車の中で席を譲った後の、自分の居場所のなさと同じ。
それはどのように処理したらいいのだろうか?