本に書いてあった


「何でも買え、いくらでも便利に暮らせる日本で、どの程度に買わず、どこまで不便に暮らすか、

そこに日本人の英知が試されている」


私の不便利運動もそういうことかと再確認。


つまり、自分にとって何が必要で何が不要かをしっかり見極める。


便利が大好きな人は、それでいい。


現代は、モノが溢れてて、

便利に生きるために色々なモノが用意されている。


パソコン、携帯電話、家電製品全般。


それを使うことで便利になり、

精神的にも本当に幸せならそれでいいのだわ。


でも、私は毎日の生活の中で無駄だと思っていることがいくつかある。

そう思うことで、不幸せにもなる。


第一に携帯電話です(何度もごめんなさい)

仕事する以上、相手のために持っているので仕方がないが、

早く、もっと自由人になって、携帯電話捨てたーい!!


地震で不便を余儀なくされている方々がたくさんいます。

私たちは、この便利な社会に慣れすぎて、

ありがたみがなくなってしまっている。

ありがたみがないなら、必要ないのではないかと思ったりもするのです。


そうそう、自動ドア。

東京には自動ドアがたくさんある。

どこもかしこも自動ドア。

自分の手でドアを開けることが少ない。


海外に行くと、公共の場に手で開け閉めするドアがまだまだたくさん残っている。

アメリカで、押したり引いたりするドアの開閉をしていると、

必ずと言っていいほど、後に来た男性が、上のほうを一緒に引っ張ってくれる。

先に通った人は必ず、次の人のためにドアを押さえている。

こんな当たり前のことが日本人は2人に1人出来ない。

いえいえ、私が開けているドアを後ろから開けてくれる男性は、

家族以外には、この国にはいませんね。


ひどい話です。


この不便というものは、

実は、コミュニケーションなのです。


便利になったお陰で、

人は、他人に頼らなくても生きていける。

ような気がしてしまったのです。

以前は、一人では出来なかったことが、

実際、出来るようになったことはたくさんあります。


しかし、人は他人に頼らずには生きていけない。

これは、昔も今も変わらないのです。

少し不便になると、人とのコミュニケーションが発生する可能性があります。


ドアを押さえておいてあげると

アメリカでは「Thank you」と言います。

これがコミュニケーション。


不便とは実はいいものなのです。


携帯電話がない頃は、

人の家に行くと、

余所のオフィスに行くと、

「ちょっと電話貸してください」ということが起こりました。

これもコミュニケーションです。


勝手にあっち向いて自分の携帯で知らない人と会話するような失礼さはなかったのです。


さて、不便利運動といいながら、

私もこの便利な社会にどっぷり浸かった人間で、

今更、電気洗濯機なしに洗濯はしたくないし、

冷蔵庫のない生活は論外です。


だから、これからは、自分で選択する!! (漢字合ってますね)

モノの溢れた現代社会で選択することは簡単ではないのですが、

どんなに便利なモノでも、

それがあることで、コミュニケーションがなくなるなど、

何か損することが発生しているならば、

捨て去ることもいいなと。


これからゆっくり考えます。