筋肉細胞レベルでの変化を | 茨城大学人文社会科学部正保研究室

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少年院の元教官の方と話して思ったことを備忘録的に。

 

少年院に再入院を繰り返す少年がいる。彼らは「謝罪のコツを学んでいる」と言う。どう言えば被害者や裁判官や教官にウケがいいのか。被害者や裁判官にウケれば措置期間が短くなり、教官にウケれば支障なく退院できる。しかしそれは彼らの本心=本当に反省している訳ではない。単に方便として学んでいるだけ。そもそも彼らにとっては「学んでいる」意識はないかもしれない。単に生きる術としてそうしているだけだ。だから再犯してまた入院してくる。

 

1年前、埼玉で飲酒運転をした男が小学生4人をはねて逃走し、懲役2年6カ月執行猶予4年の判決を言い渡された事件があった。裁判で男は「今後一切車を運転しない」と述べたそうだが、最近無免許で再び車を運転していたことが発覚した。

「今後一切車を運転しないと語った」のは多分、罪を軽くするための方便だったのだろう。そもそも、その男は43歳だというから飲酒ひき逃げ事件を起こすような者が、その後一生車を運転しないなどということはあるはずがないと私は思うが、裁判官はきっと人を疑うことのない純粋な方だったのだろう。

 

本当の謝罪は、単に言葉のレベルではなく、細胞レベルで行うべきだろうと思う。それも脳細胞ではなく筋肉細胞のレベルで。

もし埼玉の男が脳細胞レベルではなく、筋肉細胞のレベルで「反省」していたら車のハンドルは握れなかっただろうし、アクセルを踏むこともできなかっただろう。脳細胞のレベルで「こう言えば自分にとっていいことがある」と思ったから裁判でそう言っただけ、と言うことなのだろう。

 

それはさておき、学校でグループワークをやっていても同じことを感じる。

「クラスが仲良くなる」「子どもたちが他人を思いやることができるようになる」と言うのは筋肉細胞レベルでそうなって初めて意味がある訳で脳細胞レベルでそうなっても意味はない。それは道徳の授業で期待される言葉を早く見つけることが得意な子どもを育てるだけで終わってしまう。

 

カウンセリングにおいても例えば不登校の子どもが「来週から学校へ行こうと思います」と口で言うのではなく、その子が自分の足で学校まで歩いて行って初めて意味があったと言える。

学校は教育の場だが、教育とは「人が生まれながらにもつ能力や人格の発達を望ましい方向へ意図的・計画的に導く営み」を指すのだそうだ。ここで、もし真の教育というものがあるのならその望ましい方向への変化を脳細胞レベルで生じさせるのではなく、筋肉細胞レベルで生じさせないと意味がないだろう。しかし、実際には脳細胞レベルでの変化で満足していることが多くはないだろうか。

グループワークでは、体を動かし、他者とかかわることで筋肉細胞レベルで子どもたちは学んでいる(と思う)。側から見ると単にワイワイ騒いでいるだけに見えることもあるかもしれないし、ただ遊んでいるだけに見えることもあるかもしれないが決してそんなことはないと思う。「こうすればいい」と頭で思っても、それを実践して試して見ないと実際にはわからないことがたくさんある。

先週の某大学大学院での集中講義でのこと。

 

インプロ(即興)で学生たちにいわゆる寸劇をやらせた。その後のレポートによると学生たちは初め「自分にできる訳がない」と思ったそうだが、授業後は「やってみたらできたので驚いた」とのことだった。以前、茨城大学で教えた学生も似たようなことを言っていて、引っ込み思案な性格だったが、やって見たらできた自分に驚き、謝恩会では皆んなの前で寸劇を演じた、とのことだった。

人を真に変えるのは体験だとつくづく思うし、それは筋肉細胞レベルでの変化と言い換えることができるのではないか。脳細胞レベルの変化に騙され、そこで満足していては真の教育にはつながらないと思うがどうだろうか。