・恋の行方
「あんなこと言っちゃったけど、海翔君でも救えなかった人たちをどう救うんだろ...」
ほのかが目を伏せる。
それを黙って見つめる恵理。
ほのかの視界の隅に新聞が映る。
先月、学校の社会の宿題で新聞で興味を持ったことの記事を切り取って、感想を書くという宿題が出たのだ。
切り取られた下の部分には、海翔の姿がある。
見出しのタイトルは「最年少記録更新か? 天才少年現る」。
海翔は幼いころから将来を期待されていた。
小学4年生の頃の彼は奨励会2段だ。
将棋という世界で様々な最年少記録を打ち立ててきた海翔。
そんな彼にもできなかったことが、果たして自分たちにできるのか?
使える時間は限られている。
恵理の家は門限が厳しく遅く変えることが許されていないのだ。
帰るのが遅くなればまた殴られるかもしれない。
クロたちを救う方法を模索していたのはほのかたちだけではなかった。
望月湊音が家でそのことを考えこんでいると、突如窓から強烈な風が吹き込んできた。
手で目を押さえる。
目を開けた瞬間、懐かしい姿がそこにあった。
「イデア!」
「やぁ、久しぶり」
イデアは慣れた声で湊音に挨拶をする。
「湊音、君のおかげで僕は人々の心のから幸福を奪えなくなってしまった。君の優しい心が僕を変えたんだ。今、君たちが心を悩ませていることは知っているよ。その件は僕に任せてくれ。それに、君たちの仲間の1人のことも気にかかるしね。」
「待ってよ。イデアは自分の世界を取り戻さなくて良いの?」
心配そうな眼差しで彼を見上げる湊音にイデアは静かに言い放った。
「大丈夫さ、もう他人を傷つけてまで自分の故郷や仲間たちを取り戻そうとは思わない。それに、僕は君たちが幸せな世界を作っていってくれると信じている。湊音、君はもう大丈夫だ。今の湊音はとても強い。僕が心配することも無い。お別れだ。」
「ちょっ、待ってよ」
湊音がそう言った時、イデアの姿はすでにそこにはなかった。
イデアはクロたちのいる暗闇の中に1人で向かった。
空中に浮かぶと、両手を広げて幸福のエネルギーを放出する。
以前人々の心の中から奪ってしまった幸福。
それを人々に分け与える。
しかし、それだけでは足りない。
イデアは自身のエネルギーを彼らに存分に分け与えた。
絶望の暗闇の中にいる住人の不幸は消え、魂が綺麗に浄化された。
これで、心の中は皆ある程度幸せになったはずだ。
イデアは消滅しかけている身体を押さえながらとある家の方角に向かって歩き出した。
その頃、一ノ瀬海翔はクロたちを救う方法を一生懸命考えていた。
あまりの熱心さに、心配した師匠に声を掛けられた。
将棋のことであれば、海翔は楽しそうに考える。
だが、今日の彼に思考することを楽しんでいる様子はない。
「あぁ、ちょっとな」
そう言って話をはぐらかす。
師匠の青木一平はいつも海翔のことを考えて行動してくれる。
生意気なことを言っても一言二言小言を言うだけで済ませてくれるのだ。
もちろん、これは彼の才能を見込んでのことである。
普段から偉そうな態度をとる海翔も心の中では師匠のことをとても尊敬しているのだ。
ほのかのためにどうにか解決方法を見つけてやりたい、彼女の心の中から不安を取り払いたい。
そんな想いが胸の内を駆け巡る。
小学校の下駄箱には毎日一定数のファンレターが届いている。
だが、彼にとってそんな物は、極端に言えば一種のガラクタに過ぎない。
容姿が秀でている者や、特技が突出している者は世の中に五万といる、と彼は思う。
海翔は優しく真っすぐな心を持った勇気ある異性を求めているのだ。
初めて彼女を目にしたのは半年ほど前のこと。
その頃、海翔はデューグリュックに覚醒する途中だった。
闘うことがそのうちにできるようになるということは直感で分かった。
何故なのか理由を説明することは難しい。
世の中ではたまに人知を超えた領域で物事が進むことがあるのだ。
だが、第六感的な物を全く信じない海翔は半年間その理由を考えている。
もちろん、まだ結論は出ていない。
それはともかく、陰に隠れてデューグリュックたちを見ているうちにほのかに一目惚れしてしまったのだ。
他人のために駆け回る彼女の姿が、彼の心を打った。
だが、実際に対面すると緊張して上手く話せない。
気持ちを隠すため、冷静な発言をしてしまう。
そのことで、何度後悔をしてきたことか。
ほのかたちはその後1時間ほど話し合ったが、結局最後まで結論は出なかった。
恵理は内心とても焦りながら急いで走る。
公園を横切り、見慣れた小道を通る。
玄関のドアを開けると、母が待ち構えていた。
「どこに行ってたの?」
いきなり詰問される。
「ごめんなさい、友達と...」
続きを言う間もなく、母に手を引っ張られる。
連れていかれた場所は台所。
料理をするための鍋が煮えたぎっている。
母は鍋を持つと、娘に向かってそれを掛ける。
恵理は咄嗟に身をかわすが、避けきれず、声にならない声をあげる。
「あんたさえいなければ、こんなに苦労することも無かったのにね...」
意味深な言葉を発しながら恵理に殴りかかる。
娘が生まれる前には、父の仕事も上手く行っていたのだ。
だが、恵理が生まれてからすべての歯車が狂った。
父は娘を悪魔の子と呼び、両親は上手く行かないことがあると次第に彼女に八つ当たりするようになっていった。
その残虐の行為は日々エスカレートしていった。
母親が娘の腹部を蹴ろうとした時、何者かが恵理の身体を外に連れ去った。
「大丈夫か?」
恵理が小さく頷くのを見て、イデアは渾身の力を込めてこの家の不幸を吸収した。
不幸の残骸が残ってしまうが、この際それは致し方なし。
次に、自身の身体に残された最後の幸福を恵理とその両親に向かって注ぎ込んだ。
安らかな顔で眠りについている恵理とその家族を見てイデアは微笑んだ。
明日になれば幸せな家族としての時間を共に過ごせるだろう。
「さようなら、僕の愛する美しい世界。湊音、幸福の戦士たち、あとは頼んだよ...」
暮れかかった空には満月が浮かんでいる。
それは美しく、そして寂しげに、輝きを放っていた...
