・ぼくは牛
演奏会場は拍手に包まれていた。
歓喜の声が部屋に充満しているような体感がそこにある。
白石梨乃は満足げな表情でお礼を終えた。
今までで一番の演奏ができた、内心そう感じた。
観客や審査員も彼女の変化に気づいていた。
もちろん演奏には卓越した技術が必要だ。
でも、それだけでは駄目なんだ。
自分の想い、感情、自分だけの作品をメッセージにして人々に伝えること。
それがピアノを弾くものの、演奏家の使命だ。
梨乃のピアノはいかにも模範的なピアノであった。
技術が完璧な反面、内に秘める想いが伝わりづらい。
それが、プロの目から見た彼女に対しての評価であった。
だが、今回は違う。
今回の彼女の演奏は技術より感情を優先していた。
精度がほんのわずかに落ちても、人々の心の中に感動を与える。
そんなピアノだ。
結果、彼女にとって初めてのコンクールの優賞となった。
彼女の少し悲しげなピアノは我々の日常の中で日々小さな命が人間とのかかわりの中で奪われていることを僅かながら予兆させた。
次の日の放課後、ほのかの心の中の精霊、セイちゃんは不幸の残骸の存在を感じ取った。
ほのかにそのことを伝えると、「おかしいなぁ」と呟く。
「何が?」
「不幸の残骸が現れる時にはデストロイアの手先の気配も同時に感じるんだ。でも、今回はそれがない。」
2人は首を傾げながらも、とりあえず不幸の残骸のもとに向かった。
そこは人間の心の中ではない。
マジカルレンズを翳すと、牛の姿がそこに映った。
映像と共に声が聞こえる。
「ぼくは牛。クロって名前なんだ。濃いふさふさした毛並みが特徴だからね。ぼくは施設で幸せに暮らしていた。人間たちはご飯をくれたし、一緒に遊んでくれた。幸せな毎日だったよ。けど、そんな幸せな日々を過ごしていたある日ぼくは死んだ。何故だかわかるかい? それは食用になるためだよ。ぼくは殺される瞬間まで自分が職ようになるために飼育されていることに気づかなかった。人はぼくと仲良くなりたくて優しくしてくれるのかと思っていた。なのに、なのに何で...」
そう言って涙をこぼす。
「でも仕方ないよね。どんな動物だって生きるためには食べ物が必要だ。ぼくは自分がたとえ少し不幸だとしても他の誰かを傷つけたくない。」
そこで、映像が途切れた。
タイミングよく、他のデューグリュックたちもその場に駆け付ける。
不幸の残骸は青白い球になると、空中に浮かんだ。
空中に空間がひらける。
暗闇の中倒れて積み重なっている人々。
以前、海翔に見せられたのと同じ景色。
「待って。」
ほのかがそう言って手を伸ばすが間に合わず。
クロの不幸の残骸は、暗闇の中に生まれた。
「私、行ってくる!」
「ほのか、クロはもう...」
「マジカルトランスフォーマー!」
海翔が止める間もなく、ほのかが変身して暗闇の中に飛び込む。
「ほのか」
恵理もあとを追う。
「俺も行ってきます。スタイルチェンジ!」
湊音もあとを追う。
梨乃と海翔だけはその場にとどまった。
行っても助けられないことが分かっているから。
世の中には頑張ってもどうにもならないことが沢山ある。
幸福の戦士とて、神ではないのだ。
全ての人を幸福にすることなどできない。
ほのかが悲鳴をあげる。
真っ暗で視界に何も映らない中、足を掴まれて引っ張られる。
「マジカルファイアーストライク!」
湊音がほのかの足を掴んでいた腕を切りつける。
下を見れば無数の白い手が存在する。
それらがこっちに向かって伸びている。
「みんな、一旦逃げるよ、マジカルバリア!」
このままでは危険だと判断した恵理が2人の身体をバリアで覆う。
3人は危機一髪外に脱出した。
「もう、ハラハラさせないでよね。あの暗闇の中に落ちれば、永遠に絶望の中をさ迷うことになるのよ。」と梨乃。
「でも、クロは? 他の人たちはどうなるの?」とほのか。
海翔は黙っている。
「私はどんな人にも絶望をさ迷ったりしてほしくない。クロたちを救う方法だって探せばきっとあるはず」
ほのからしい考えだな、と海翔は内心では感心しつつも冷たい口調で言い放つ。
「無理だね、俺も考え付く限りのあらゆる方法を試したよ。でも、彼らの絶望は想像以上に深い。それに、彼らが目覚めれば彼らの中の不幸の残骸も覚醒して人々に危害を加える。特別な力を持っていたとしても、どうにもならないこともあるんだよ。」
「私、クロたちのことを諦めたくない。他の方法を考えてみるよ。行こう、恵理。」
黙って頷く恵理。
ほのかに引っ張られる形で走っていく。
「あんた、何酷いこと言ってんのよ。あの子に嫌われちゃうわよ。」
「う、うるせぇな。俺の勝手だろ。」
梨乃は海翔の心の中を前から見透かしていた。
海翔は幸福の戦士たちの頑張りを陰で見ているうちに、ほのかに対して恋心を抱いてしまったのだ。
ドジで不器用な癖に、他人のために駆け回る優しさが好きだった。
事実、彼もさっきの発言で、彼女を傷つけてしまったことを心の中でかなり反省していた。
世間に注目されている若き天才少年も、恋の前ではただの子供に過ぎない。