なぜ世の中には障害と呼ばれる物が存在するのか、長年疑問に思っていた。

 

私は自閉症スペクトラム障害と注意欠陥多動性障害という2つの障害を持って生きており、人と上手くコミュニケーションが取れずに苦労してきた。

 

今回は、「そもそもなぜ障碍者が存在するのか」という最も根源的な問いを追求してみる。まずは、私にとって最も身近である発達障害のことから考えた。突き詰めていくと、発達障害というのは能力主義と現代社会のシステムによって悪意なく作り出されてしまったのではないかと思えてくる。

 

例えば自閉症スペクトラム障害は人とのコミュニケーションが上手くいかないという特徴があるが、これがなぜ障害になるかと言えば、現代社会がコミュニケーション能力を求めているからだ。しかし、コミュニケーション能力が不要な社会であれば大して生活に支障はない。

 

注意欠陥多動性障害についても同様で、不注意、多動性といった症状は現代の社会システムの上では弊害であるが、例えば原始時代であればそこまで影響がなかったように思う。

 

注意欠陥多動性障害はもともと狩猟民族だったのではないかという説もある。なるほど確かに自然界においては、不注意は迫る天敵をいち早く見つけることができ、多動性は獲物を狩るハンターのスキルとして有利に働いたとも言えそうだ。

 

そのように考えれば、現代社会においては不利に働く場合もあるこれらの特性にも納得がいく。現代の文明では計画性が重視されるが、自然界では衝動的に動いていた方が長生きできるかもしれない。

 

すなわち、大多数が生きやすい社会から外れてしまったものを人は障害だと認識する側面があるのだ。ここで私はふと思った。もし人間が全員現在の状態のまま原始時代に戻ったらどうなるのだろうと。そうなれば、ADHDを持つ人の方が上手く生きられるかもしれない。

 

更に言えば、毎日同じことだけを繰り返す仕事がほとんどを占める社会になったらどうなるだろう。そうなれば、ASDの特性は寧ろプラスに働くかもしれない。

 

精神疾患も占いが絶対的な力を誇っている時代にはそれが有利に働くこともあったかもしれない。

 

このように障害というのはその時代の社会の大枠から外れてしまった人に対して使われる言葉であるように思う。

 

そして、私は思った。様々な障害が存在するのは、人間という種族が簡単に絶滅しないためなのではないかと。

 

前述したように、原始時代のように狩りをして生活をしていた場合、ADHDを持つ人の方が上手く生き残れる可能性もある。

 

このように、社会の仕組みや自然のバランスが変わった場合にも種を存続できるように様々な障害が存在するのではないか。

 

その社会に求められている能力が変われば、障害と呼ばれる人の種類も変わる。

 

LGBTQの存在意義もそこにあるのではないかというような気がしてくる。

 

片方の性別が著しく減った場合にも子孫を残せるように。

 

「彼らは子孫を残せないじゃないか。」という突っ込みが入りそうだが、非常事態においては子孫を残せるようになるかもしれない。

 

途中で性別が変わる海の魚がいるように。

 

これが、私が導き出した結論である。このような研究をした学者がいるのかどうかは分からないが、私はそう思っている。このことに関して興味深い論文を知っていたり、私とは別の独自の考えを持っている人がいればコメントにて教えて欲しい。