私はめったに他人に訊きません。
他人の話を聞きません(笑)。
わからないことや、疑問なことがある時、
答えを知っている人、知っていそうな人に直接訊いてしまうのは簡単なように思えますが、
ネット、本、その他のメディアから自分で調べるのとは根本的に知識への関わり方が違うと思います。
また、先生や専門家に講義してもらうのは、ただ答えを聞くのとは違うと思います。
私は耳学問というのを信用していませんし、そのような態度で知識に接している人も信用度は低いです。
よく、芸能人、タレント、芸人などで「モノ知り」と言われる人がいますが、大半はこの種の耳学問です。
子供の頃は周囲のオトナがこれらの人を話題にして「落語家の誰某は頭がいい」というようなことを言うのを耳にして、「ああ、確かに頭がいいな」と思っていましたが、
ある時からそうは思えなくなりました。
それは彼らの言動をクロニクルに観察すると、辻褄の合わないこと、論理的に整合性がとれないことが頻発することに気付いたからです。
言い換えると知識が断片的で行き当たりばったりでモノを言っているということなのです。
耳学問に一定の有用性があるとすれば、それは受け手が常に自分で調べ、自分で考えることを実践している場合です。
まっとうな学者なら異分野の人の一言を有用なヒントとして正しい結論を導き出すが、タレント評論家は場当たり的にいいかげんなことを言う、というのがいい例です。
他人に訊くといえば、インターネットではあちらこちらに質問の書込があり、それに答える親切な人がたくさんいます。
私もこれらの書込を参考のすることがよくあります。
PCのトラブルなんかは同じような事例の解決策を得てとてもありがたいことも多々あります。
しかしここでも気になるのは質問者の無知、不勉強です。
回答者の解答を理解できないのでは、と思える事例が間々あります。
世の中には「教えたがり」が山ほどいますから、ネットに疑問を投げ込めば誰かしら答えてくれますが、これが人の知的発達には足かせになると確信しています。
根拠無く言っているわけではありません。
「すぐに答えを聞きたがる」学生は出来るようにならない学生の典型です。
ある答え、あるやり方の背後にある法則性を理解しようとしない態度、または理解できない能力、その努力を放棄する態度は、偏差値で言うと50を超えられないということを意味します。
(高校受験や大学受験、その他類似の試験に限ればこういう人でも試験にパスすることは可能です。それが私の仕事ですし(笑)。この話は機会があれば別の時に。)
話を戻しましょう。
自分の中に論理性を構築できないと言うことは、際限なく誰かに訊き続けなければならない、又は誰かにマニュアルを作り続けてもらわなければならない人生だということです。
それはつまり、暗記し続ける人生、東条英機の人生です(笑)。
それも人生です。
美しくない人生ですが、さほどに悪い人生でないかもしれません。
私は?
美しくないのは嫌ですよ(笑)。
だから訊かない。