年賀状 | 物質の下僕

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語りえぬものには、沈黙しなければならない












let me have my enemies butchered

今年はまだ原稿ができていない。去年はケイの写真満載ですぐにできた。ちょうどよく戌年だったし。ケイは酉年のイヌだが。
この戌年は例外で、私は毎年、干支とは無縁の年賀状を作っている。かならずしも評価されているわけではないが、一年の総決算の意味も込めて自己満足の産物でいいと思っている。
今年の分は、だいたいの構想はできてきている。といっても一週間前には何も思いつかず、ここ数日の間に浮かんだアイディアであるが、まあ、毎年だいたいそんなものである。いつも頼んでいる印刷屋さんが今年は案内をよこさなかったのも、なかなかスタートしなかった原因である。Webで調べたら今年もキャンペーンやってるではないか。去年なんかは、メールとファックスと両方で案内を送ってきたのに、どうなっているんだ。どこも印刷関係はいわば構造不況で人手も足りないのかもしれない。
郵政公社にとっては年賀状はなくなっては困るイベントであろうが、インターネットの普及でかなり数を減らしているときく。しかし、私の周囲を見渡すと、インターネット普及以前から、若年層を中心に年賀状を書かない人が増えている。理由はいろいろあろうが、忙しいさなかに、とりあえず出せば義理がはたせる、という程度なら出さないほうがましと考えている人も多いのではないか。さりとて、お金も時間もかける余裕はないと。新年の挨拶をしたくないわけではない。それが証拠に携帯電話が普及したら、年末から年明けにかけては電話がつながらないほどで発信規制までかけられている。
私だって、自己満足が充足されて、なおかつごく限られた支持者のお褒めの言葉をいただければこそ、めんどうなことを毎年やっているのであって、単なる社交辞令の挨拶だったらとっくに止めている。現に、一時いただいた方にも返事を書かずに大分数を減らしてしまった。それはそれで自然淘汰だと勝手に納得している。新しい人が増えないでもないが、若い人には相手のことも考えないといけない。全然書かない、返事も書かない、同年代ではやりとりがない、というような人にこっちの勝手で送りつけるのは差し控えるべきであろう。もらったほうだって、返事をかいたものかどうかと難儀をするだろうから。
もちろん、きちんと気持ちを込めて年賀状を出し、もらった年賀状を楽しみにしている人もいる。
そういえば、書道の師範の資格を持っている友人で、いつも毛筆のみごとな年賀状をくれていた人が、ここ数年前からPCを使った印刷になってしまった。そういうこともあるのだろう。