また例の蕎麦屋へ。今日はメニューにあなごの天ぷらがあったので早速注文。期待に違わず美味。まあ、私としてはovereatingだがそれもたまにはよかろう。体脂肪率8%ではいかにも健康的にすぎる。
さすがにおなかがいっぱいで帰ってすぐには散歩にでられなかった。
さて、またサッカーネタだが、朝日新聞のwebの記事で、中田と他の選手(おそらく国内組だろう)との確執を物語るエピソードに嫌気がさした。一部選手が移動中のバス内で携帯ゲーム機に興じていたというのである。もはや怒りを通り越して情けない。今すぐにこの連中の頭を拳銃で打ちぬいても涙も出ない。こんな連中を野放しにしておいたジーコの罪は重い。そうは言ってもいい歳をした者が小学生以下の頭しかないなんてここ日本以外では考えられないであろうから、ジーコに罪を着せるのは酷かもしれない。こんなことを言うと、前回述べた「まじめさ」の議論との矛盾を指摘する向きもあろうかと思うが、私が問うているのは戦う意志の問題である。近年、スポーツの大舞台に臨む選手がよく口にする「楽しんでくる」「リラックスして臨む」というセリフは実に気に食わない。国際試合でプレッシャーなんてあたりまえである。公の場でこれらのセリフと口にすれば、自らの弱さに免罪符を求めているようなものである。勝つために必要なのは相手を殺そうとするかのごとき、猛烈な殺気である。ゲーム機や携帶電話をいじくりまわしてなんの勝利か。そもそも若者に金を与えていいことはこれっぽっちもない。金は体を楽させる。結果、何も身に付かない。拝金日本に未来はない。2010も今とさほどかわらないだろう。今の日本の若者を取り巻く環境は最悪である。その親をはじめとした大人が腐りきっているからである。望みが全くないとは言っていない。大人がきちんとした環境を与えて手間を惜しまなければ若者の回復力は期待以上である。でなきゃボンクラ受験生が大学に受かるものじゃない。
日本の大人の腐り具合と、その子供たちの救い難い状況を私は他の誰よりも身にしみてわかる環境にいる。
私はいつも子供の味方である。大人は全ての責任がある、と思っている。私は自分の親を許さないのと同様に世の中の腐った親を一人たりとも許すつもりはない。
金の力で子供を支配しようとすれば、子供はテロリズムで対抗するしかない。すでにその兆候は現れているが、ここに予言しよう。今後も想像を絶する子供によるテロリズムは激増すると。
その種のテロリズムの先駆けであるこの私が言うのだから間違いはない。
奈良の少年よ、もっと父親を苦しめるがいい。反省など無用だ。