ロベール・グロフィエ シャンボール・ミュジニー 1級 レ・オー・ドワ 2002
購入日 2007年2月
開栓日 2009年4月29日
購入先 かわばた
インポーター 八田
購入価格 8450円
季節柄かどうか自分でも分からないが、シャンボール・ミュジニーが続く。
グロフィエの1級畑は、まだ比較的入手容易で、いくつかのヴィンテージを試した記憶がある。
最近では、約1年前にレ・サンティエの2001を開栓したが、これは大ハズレであった。
購入先もインポーターも、今回の2002とまったく同じところである。
これだからブルゴーニュは分からない。
さてこのレ・オー・ドワの2002、久々の幸せワインであった。
ooisotaroさんの定義どおり、わたしにとっても、幸せワイン>>美味しいワインである。
ワインを表現するのは苦手なのだが、ちょっと努力してみる。
開栓すぐは、まだ熟成過程にあると思われる鰹香がほんの僅かに漂う。
先述のローラン・ルーミエの村名と比較しても、ハーブやスパイス香がほのかに感じられ、
余韻がふんわりと鼻腔に抜けるのが実に心地よい。
どちらかというとミネラルやタンニンは弱めで、たおやか、という形容詞が最もあてはまる。
と、このワインに感じたことを書いてみたものの、そんな文章表現をあざ笑うかのような魔力が、
このワインには存在したのであった。
それはいくら美文家でもおそらく表現不能で、結局は「官能的」と書かざるを得ない
のだろうと思う。
例によって自己主張の強くないシャンボール・ミュジニーのワインらしく、
料理にあつかましく介入してくることはない。
しかし、食事が終わってもワイングラスを手から放すことができない。
まるで理性を失ったかのように、グラスの香を嗅ぎながら、時には心地よい睡魔にも
襲われながら、ワインだけで数時間の時を過ごしてしまった。
入浴するのも忘れ、気がつけばただ1人(とウサギ)、深夜の2時になって我に返った。
面白いことに、この右脳に直接働きかける魔力は、開栓当日にだけ存在し、
約3分の1残した2日目には、ただの美味しいワインになり果てていた。
「何だったんだ、昨晩の数時間は・・・」
こんなワインを知ってしまうと、ワインは食事とともに楽しむもの、という
本来の姿から大きくかけ離れてしまう。
わたしがブルゴーニュから離れられないのは、まさに年に1度か2度しか遭遇しない、
こんなワインに出会うためである、というのはある意味正しい。
しかし年に1度か2度だから、わたしはまだ理性を保てるのであって、
もし毎日こんなワインを開栓するとしたら、妖艶な魅力に打ち勝つ自信はなく、
人間がだめになりそうである。
幸せワインとの出会いは、金銭で得られるものではなく、神の思し召しというか、
極めて偶発的な事象である。
それなりの投資は必要だが、金銭は出会う確率を上げるための手段でしかない。
あとは祈るのみである。
記録できるからある程度の再現性がある、という点が少し異なってはいるが、
音楽作品にもこのようなものは確かに存在する。
音楽がまだ救われるのは、限られた時間内の芸術であることと、
アルコールが含まれていないことである。
同じモーツアルトの作品を聴いていても、演奏者の天才性に気付かされることは稀であるし、
天才性に気付くことができる聴き手も稀なのだ。
これは技術的な巧さとは違う次元の話である。
そんなワインや音楽の魔力は、飲み手・聴き手にレセプターがなければ看過されるだけだが、
そんなレセプターなど持ち合わせない人間の方が、きっと幸せである。
世の多くの賢者は、レセプターを持っていることを、普段はひた隠しにしているに違いない。