ゲファントハウス合唱団のヨハネ受難曲 | ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

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J.S.バッハ ヨハネ受難曲 BWV245(第2稿 1725年版)
2007年10月14日(日) 1330~
指揮 エッタ・ヒルスベルク
独唱 波多野 均(福音史家・テノール)
   萩原 寛明(イエス)
   佐竹 由美(ソプラノ)
   永島 陽子(アルト)
   三原 剛 (ピラト・バス)
合唱 大阪ゲファントハウス合唱団
   カメラータ・ヴォカーレ・ベルリン
管弦楽  大阪チェンバー・オーケストラ
オルガン アンドレアス・リージウス

旧友である眼科の女医さんがメンバーの1人である、大阪ゲファントハウス合唱団の
演奏会がこの日曜日に行われた。
今年の3月にこの合唱団はベルリンを訪れ、同じ指揮者とカメラータ・ヴォカーレ・ベルリン
と共演して、同曲を演奏したとのことである。

今回の演奏会は、2005年に落成した兵庫県立芸術文化センター大ホールで行われた。
ここを訪れるのは初めてなので、大いに期待して行った。
一歩足を踏み入れると、木の香りがする。
写真でも分かるように、内装はすべて重厚な木張りであり、大変格調が高い。
2階の最前列に座ったが、前の柵が低く何となく崖っぷちにいるようで落ち着かない。
高所恐怖症の家内は、こんなコワイ席ではおちおち音楽を聴いておれない
などと言っていた。
実際には相当退屈してうとうとしていたようだが。

演奏が始まると意外なほどデッドで、残響が短い気がする。
それより、音源が小さく聞こえ、テノールの波多野さんの声も普段よりはるかに
痩せて聞こえたし、合唱の高音域も抜けが悪かった。
普段シンフォニーホールやいずみホールで聴く機会が多いので、
この人数でこの曲を演奏するには、ちょっとホールが大きすぎるのでは、と思った。

一階席で聴いたらかなり異なった印象を持ったかも知れないし、
大オーケストラを聴けばまた印象が違うかも知れない。
しかし階上席の居心地の悪さと、音源が妙に矮小化すること、係員の対応が
あまりに公務員的であったことなどから、このホールは見かけだけで
大いに期待はずれだった、と言っておこう。

さて肝腎の演奏だが、ヨハネはマタイほど聴く機会がなく、マタイは生で数回
聴いているが、ヨハネを聴くのはこれが2回目だと思う。
メンバーの(元)酒乱の女医さんから、ちゃんと真面目に聴いて感想を書くようにと
命じられているので正直に書くが、破綻のない、とても良い演奏であった。

受難曲の要であるエヴァンゲリストはお馴染みの波多野均で、
線は細いものの1つの完成されたスタイルを提示していたし、
相方であるバスの三原剛も例によって落ち着いたもので、安心して聴けた。
このヨハネでは、バスの重要な役柄はイエスではなくてピラトであるのが
マタイと異なるところではある。

わたしはこの曲に関しては、超有名なカール・リヒターの1964年頃の演奏以外には
ほとんど耳にしたことはないので、今回の演奏の特徴につき多くを語る資格を持たない。
今回の演奏自体がアマチュアということを抜きにしてもかなり完成度の高いもので
あったため、演奏会に関するわたしの感想は、作品自体に関して向くものになってしまう。

学生時代には、マタイにしろヨハネにしろもっと気楽に聴いていた。
この重々しさ、荘重さが苦にならなかったし、バッハの最高傑作に挙げられる
作品だと思っていた。

しかし今聴くと、これはキリスト教(ルター派)の宗教行事のために書かれた、
はっきり目的のある音楽であって、わたしのようなキリスト教信者ではない人間には
まったく無縁な音楽ではないか、と思うようになった。
バッハ自身だって、音楽としての普遍性を意識して書いているとは到底思えない。

音楽がそれ自身以外に目的を持つことをわたしは嫌う。
これは文学作品でも同じだ。
技術的には申し分ない豊中混声合唱団の音楽をまるで評価しないのも、
それが最大の理由である。
もっとも、こちらは取り上げる作品にも見るべきものがほとんどないから論外だが。

学生時代には、宗教音楽にこそ名作が目白押しだと思っていたことがある。
バッハ以前には、ギョーム・ド・マショーのノートルダム・ミサに始まる
純粋な宗教音楽の名作が多く存在するし、ブルックナーのシンフォニーだって、
広い意味では宗教性を帯びていると言えなくもない。

しかしここにきて、マショーやオケゲムやデュファイやジョスカンのミサやブルックナーの
シンフォニーには、宗教性を突き抜けた宇宙が存在すると確信しつつも、
バッハの受難曲は違う、と感じるようになった。
今回の演奏会で最も印象に残ったのはこの点であった。

版の点だけは補足しておかねばならないだろう。
バッハは相当熱心にこの曲の改訂を行っていたらしい。通常使われるのはいろいろな
版を混合したものだと書かれているが、このあたりの事情はよく知らない。
今回用いられた第2稿と通常の版との最大の違いは、最後のコラールが異なること
であろう。

マタイの最大の山場は、キリストが息絶えたあと最弱音で歌われるコラール
「Wenn Ich・・」であるが、ヨハネはそのような構成になっていない。
通常の版では、最後の大きな合唱曲「Ruht wohl・・」のあとに、
コラール「Ach,Herr・・」が置かれている。
長大な「Ruht wohl・・」はマタイの最終の合唱曲に相当し、
下降音型で書かれている点が共通している。
ヨハネではマタイにはない最後のコラール「Ach,Herr・・」が続くのだが、
これこそが最大の聴き所であって、弱音で開始され、最後は伴奏が入って
フォルテッシモでこの大曲を閉じる。

その重要なコラールが、第2稿では穏やかな「Agnus Dei」となっており、
その結果聴後感がずいぶん穏やかな印象となっている。
やはり最後は「Ach,Herr・・」で終わる方が何倍も満足感がある、と感じるわたしは
ミーハーなのだろうか。