やっぱりガメイ | ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

テロワールにより造り手により 変幻の妙を見せるピノ・ノワールの神秘を探る


フレデリック・コサール ボージョレ=ヴィラージュ・プリムール『ラパン』 2006
購入日    2006年11月16日
開栓日    2007年1月14日
購入先    Alcoholic Armadillo
インポーター コスモ・ジュン
購入価格   3300円

おまえはどれだけガメイを知っているのか、と問われると答えに窮する。
ブルゴーニュやボルドーの上級ワインのように、10年以上熟成したボージョレなど
もちろん飲んだことはない。
せいぜい毎年11月にわんさかリリースされるヌーボーを、決して賛辞をたれることなく、
ぶつぶつ言いながら開ける程度である。

端からボージョレなど置いておいても大したものにならない、と断定するのは、
体験したことがない者として、気が引ける。
しかし、腹の中ではそう思っている。

「ベートーヴェンのシンフォニーなど、ひっくり返ってもブルックナーには及ばない。
 パレストリーナのミサ曲は、ジョスカンの足元にも及ばない。
 同じように、ガメイがヴォーヌ・ロマネのピノ・ノワールに比肩できるはずもない」
と書くのは暴論である。
そして、わたしはこの暴論を信じる。
もちろん、他人に共感を求めることはしない。

ooisotaroさんやAlcoholic Armadilloさんのおかげで、ガメイとも思えない美酒を
いくつも体験できた。
それらは得難い経験で、一例を挙げれば、ピエール・ボージェのレ・トゥルディがある。
とてもガメイとは思えないワインだったが、わたしが知る限り、最もガメイらしくないガメイだった。
しかし、これは例外ではないかと思う。

何と言われてもやっぱりわたしはガメイはキライである。
嫌いなものは嫌いで、どうしようもないのであって、ガメイらしさを感じさせるワインは、
開けてもちっとも杯が進まない。

今回のワインもまさにそうで、頭では
「ヌーボーとして非常に良くできている」
「ビオワインらしい魅力がある」
ということは感じられるが、ガメイであることから抜けられない。

11月にいろいろなボージョレ・ヌーボーをAlcoholic Armadilloさんから購入し、
パーティで数本ずつ開けてたいへん楽しい思いをした。
それらのビオ・ヌーボーは、そこいらで売っているジョルジュ・デュブッフのヌーボーとは
明らかに一線を画すものであり、1本1本に個性があることは良く理解できた。

それらの中で、わたしが最も気に入って、1人で1本開けてみようかと思ったのが
このコサールのヌーボーであった。
他のヌーボーと比較すると、最も洗練されているように思えたが、これ1本を
普段の食卓に持ち込むと、何とも泥臭く、いかにもガメイという感がぬぐえない。
残念ながら良くできたガメイという範疇から抜け出せるものではなかった。

やはりわたしはガメイが基本的に好きではないのだ。
歳を取り、1本1本が貴重な体験であるなかで、ガメイを1本開けることで、
体験できるピノ・ノワールが1本減る。これは耐えられない。

ワインには、音楽と同じようにヒエラルキーがあるのではないか。
理屈ではなく、五感のみがそれを告げ、聞こえたものだけが階段を上っていく。
それをまざまざと感じさせられた一夜であった。