一流サバイバーへの道 -4ページ目

写真


妻は、美人で可愛い女性でした。


・・・一行目からノロ気てみました。

今は照れずに、そう言えるのですが、
妻ドロシーが生きている間に
その気持ちを正直に妻に伝えていたか?
と問われると、『サボってたなぁ・・・』
というのが正直な答えです。

私が『可愛い』『綺麗』『大好き』なんて台詞を吐いたなら、
妻なら『ちょっと・・・キモい!』と反応しそうですが、
照れ屋な性格の妻ですから、
『本当は嬉しかったかな?喜んでくれたかな?』
と、今更ながら自問自答したりしています。

出会って直ぐの頃は、ちゃんと伝えていたんですけどね。

以前、妻の親友Hから
『タクミさんが、こんなにドロシーのことを想っていたなんて
 ドロシー自身は生きてる時は知らなかったかもよーー』
『ドロシーだけの片思いだって思ってたかもよーー』
と言われてしまいました。

ドロシーよ・・・。
本当にゴメンなさい・・・。

時々、記念日や、妻が元気が無い時に
LINEや手紙で愛情表現するくらいだったもんね・・・。
本当にダメな男です・・・。




『美人話』の余談ですが、
このブログでも何度も話題に出てきていますが
妻は双子です。
二卵性双生児です。

二卵性なので、双子と云っても
『そっくり』ではありません。

妻は『中島美嘉似だ!中谷美紀似だ!』
と言われていましたが、
双子の妹はオリエンタルな顔立ちで
黒木メイサのような雰囲気でしょうか。


妻の親族は『女系』の家系で、
従姉妹達は女性だらけ4人です。
(と、男性の従兄弟1人です。)
『従姉妹』ですから、そりゃ女性ですよね(;^_^A

それぞれ皆んな美人揃いです!
初めて、妻に従姉妹の女性陣を紹介された時は
『美人だらけの家系だな・・・♥』と
感じたものでした。

年を重ねて更に綺麗になっていく。
そんな言葉を体現するかのような従姉妹達ですが、
妻も、その例外ではありませんでした。

・・・ノロ気っ放し、調子に乗りっ放しの余談でした。




毎日毎日、妻の写真や動画ばかり観ています。

出会ってから今までの写真や動画を
何度も何度も繰り返し観ては、
『可愛かったな』『綺麗だったな』とシミジミ思うのです・・・。


出会ってからの約17年間に撮影した写真や動画は
膨大な量になっています。

妻ドロシーが亡くなってからは特に、
取り憑かれたように写真や動画を整理・収集し、
赤ちゃんの頃から亡くなるまでの妻の姿を
何度も何度も見直しています。

子供の頃に、双子の妹と一緒に写っている写真。
家族・親族に囲まれて笑っている写真。
高校時代に、親友と一緒に写っている大量の写真。
双子の妹家族と一緒に写っている大量の動画や写真。
私と出会ってから亡くなるまでの17年間の写真・・・。


実は、私と妻が一緒に写っている写真は極わずかです。
私自身が、写真に写るのが苦手だからではあるのですが、
今となっては『もっと一緒に撮っておけば良かったな・・・』
と後悔もしています。



そんな私に取って、とても大切な写真が1枚あります。
妻の双子の妹が撮ってくれた写真です。

がんセンターの廊下を歩く私達2人の後ろ姿を撮った、
ピントも合っていない写真ですが、
何故だかとても思い入れのある1枚となっています。
手を繋いでおけば良かったかな?(^▽^;)

気紛れで撮ったような何気無い写真なのですが、
何故だか理由は解りませんが、
その、2人の後ろ姿の写真が、とても愛おしく感じるのです。



過去の写真を見返してみると、
『この時のドロシーは素直に笑っているな♥嬉しそうだな♥』
『この頃の写真は、妻は無理に笑っているな(><;)』
『なんだか寂しそうな顔で笑っているな・・・』
『そう云えば、この頃は色々あった時期だもんな・・・』
・・・・・・・等々、色々な思い出や感情が蘇ってきます。


もっともっと沢山の妻の姿を残しておきたかった。
もっともっと沢山の妻の笑顔を残しておきたかった。


2010年に気管切開をしてからは、
写真の背景に病室が写ることが多くなりました。

点滴をしながら病室でパジャマ姿でいる写真。
下顎を割る手術をした後に、
やっと食事の許可が出た時の、嬉しそうな食事風景の写真。
胃ろうを付けたお腹を、自分で撮って私に送信してきた写真。
血管肉腫の影響で左の瞼が紫色に変色している写真。
抗がん剤の影響で髪の毛が抜け切った写真。
『今日、こんなに出血した!』と、私に送信してきた写メ
・・・・・・。

ここ5年程に撮った写真や動画は常に、
妻は病気と闘っている姿です。
何処かに出掛けて楽しそうに笑っている、
そんな写真は無くなりました。


それでも、妻は相変わらず綺麗です。
遊びや旅行に出掛けて、ふざけたり笑ったりしている
そんな写真に負けないくらい綺麗です。


妻自身は、病気でドンドン変わっていく自分の姿を
毎日毎日 鏡で見るのは、とても辛い作業であったことは
間違い無いかと思いますし、
悲しい思いや、寂しい思いを毎日繰り返していたことと思います。

自分の姿を見て、もう出来なくなった事や
これから出来なくなっていく事を毎日確認し、
何かを諦めたり、もう一度奮起したりする。
そんな苦しい作業が
『鏡を見る』という行為だったのかもしれません。


それでも、私に取っては
相変わらず妻は綺麗なままでした。

病気と闘う妻の姿は、とても綺麗で
そして、とてもカッコイイ姿として
私の記憶の中で、今でも輝いています。

私に取っては、
『笑顔の妻の姿』も、『闘う妻の姿』も、
どちらも『綺麗で美しい』と感じられます。

『辛かっただろうな・・・』
『こんな思いをしなくても良いのに、なんで・・・』
と云う思いは、勿論 私も強く感じますが、
妻の美しさの前では、病気による姿の変化なんて
大した問題ではありませんでした。


亡くなる約1時間前の、
目の焦点が合わなくなった状態で
私の呼びかけに反応する妻の姿も、
亡くなった直後の穏やかで優しい顔も、
私に取っては『綺麗で可愛い妻』のままでした。



妻の『最後の笑顔』の写真は、
双子の妹家族5人と一緒に撮った
『妻の人生最後の誕生日』の写真です。

病院側の特別な計らいで、
本来は病棟に入れない小学生の姪も
妻の個室まで内緒で入室することが許され、
双子の妹、旦那さん、甥っ子姪っ子、皆んなに囲まれ、
ベッドの上で大きく目を見開きながら
もう殆ど動かなくなった頬をニッコリと上げて
『Vサイン』をしている妻の姿が
妻の『最後の笑顔の写真』です。

双子の妹家族に取っても
この写真は特別な1枚になっていることと思います。

私は撮影する側でしたので、
笑顔の妻の横に 私は居ませんが、
出会った頃に、妻にカメラを向けた時と同じように
レンズ越しに私を見て笑ってくれている
綺麗な笑顔の写真です。



どんな姿になっても、妻は、とてもとても綺麗な女性でした。

出会ってから亡くなるまで、そして今も、これからもずっと
妻は綺麗なままです。




ドロシーの夫 タクミ

ドロシーの生きた証-1

ドロシーの夫のタクミです。


毎日うだるような暑さで嫌になりますが、
妻の居る天国は快適なことを祈っています。

暑いのが苦手で、襟足からいつも
汗を流している妻でしたので(;´Д`)ノ

初盆で地上に戻ってくる時は、
愛車のエアコンをガンガンに点けて
UNICORNでも聴きながら
安全運転で帰ってきてくれ!
待ってるよ (///∇//)


さて・・・
いつもいつも長文駄文になってしまって
申し訳ありません。

その時の空気感も、
可能な限り再現しようと思うと、つい・・・。

その所為か、なかなか前に進みません(;^_^A
『進みたくない』というのが
本音かもしれませんが・・・。



私が書く闘病記のタイトルが、なんとも重々しく
私自身、闘病記をブログに書く際は
なんだか辛い気持ちで書き始めていたので、
闘病記のタイトルを変更致しました。

「そんなのお前次第だろうが」
との声が聞こえて来そうですが(^_^;)



そう云った訳で、妻の闘病記の順番は、
『生と死の直視と、闘いの記録-1~5』
 →『母の思い遣りと、娘への愛』
 →『ドロシーの生きた証-1』~
となります。



妻が 2月から更新出来なくなっていた
このブログですが、妻が亡くなる日までを
皆さんに知って貰いたいという願いや、
私の記憶の中にある妻との日々を
風化させず残しておきたいと切望し
記載し続けております。

もし宜しければお付合い下さい。



⬛︎ 2015/01/09(金)ー つづき ⬛︎


主治医からの説明を受け、
妻ドロシーの母に
妻の思いの詰まったメールを送信し終え、
その日は私も病院をあとにしました。


病院の東病棟に入院している時でしたら、
がんセンターのバスロータリーや駐車場が
病室からよく見える為、いつも窓辺から
手を振ってくれていた妻ドロシーですが、
今回入院している西病棟の個室からは
駐車場やバスロータリーは
完全に死角になって見えない為、
妻は、病院のエントランスまで降りて
私の見送りをしてくれました。



この当時の妻は、
まだ足取りもしっかりしており、
呼吸が苦しくなる時がありながらも
私よりも歩くスピードが速いくらいで、
この日に受けた主治医の説明を全く知らなければ、
いつもと変わらない、いつも通りの妻ドロシーにしか
見えない程でした。


誰も居なくなり、ただ電気だけが灯っている
巨大なエントランスホールから、
私が見えなくなるまで
笑顔で大きく両手を振り続ける妻の姿は
今でも目に焼き付いております。



主治医の言葉の重みを受け止め、
内容の正確な理解の為に、
一言一言を何度も頭の中で反芻し、
これからの妻との生活、そして残された時間を
可能な限り現実的に考えようと努めていましたが、
やはり、主治医の語る今後の予想と
見送りで手を振る妻の姿を
同一人のものとして受け止めるのは
私にとっては少し難しい作業でした。

『こんなに元気に見えるんだし、
 今回も先生の予想を見事に裏切ったね!
 また先生は心配し過ぎで
 取り越し苦労だったね(^∇^)
 これで何度目の予想の外れだろうね(^∇^)』

・・・今迄のように、そう言いながら
猫のKと三人で笑い合っている姿が
私の頭の中で何度も再生されていましたが、

『ただの現実逃避だ。もっとリアルに考えろ』

と、私の中の別の自分が
繰り返し繰り返し囁き掛けていました。




私が病院から自宅に着くまでの間に
妻からLINEが届きました。
その内容は『3つのお願い』でした。

1)『Y(双子の妹)に連絡して説明して欲しい。
   どうせ泣くだろうから、
  何を伝えるかはタクちゃんに任せるね。
  今回は、全部話しても構わないから。』

2)『タクちゃんの実家の義父さんと、
  H美ちゃん(私の妹)に、
  今回の件を連絡して欲しい。
  それで改めて、実家のお墓に
  納骨して欲しいって伝えて欲しい。』

3)『タクちゃん、これからも
  どうぞよろしくお願いします♥』

というものでした。



笑顔で手を振って
私の見送りをしてくれていた、その時には既に
納骨のことを考えていたのか・・・。
そう思うと、今でも胸が締め付けられます。

『お義母さん(私の母)と
 同じお墓に入れるなんて
 嬉しいな♥』

というLINEも届いておりました。



今迄も何度も2人で話し合い、
妻の『生きたい気持ち』や『死にたい気持ち』、
色々な思いを確認し合ってきたとは云え、
やはり文字として『納骨』という言葉を
直接目にするのは辛いことでした。

当然、妻自身も
『自分自身の納骨』という言葉を
LINEに打ち込む作業は
辛かっただろうな・・・と
胸が苦しくなります。



それでも、妻も私も
決して諦めてはいませんでした。

出来なくなることが増え、
緩やかに死が訪れる。
その事は受け止めなければいけません。

『死』という現象が
遥か遠い先の出来事ではなく、
朧げながらも自分達に近づいてきた。
その事も認めなければいけません。

それでも『まだまだ終わらない!』
『まだまだ先の人生が残っている!』
と、2人とも心から信じておりました。

『悪い予感』は、所詮『予感でしかない』
と、何度の自分に言い聞かせ、
今迄のように、困難を乗り切る心構えと
闘いの準備を2人はしていたんだと、
今でも思っております。

『タクちゃん、これからも
どうぞよろしくお願いします♥』

という言葉は、『諦めない気持ち』を
2人で再確認する為の言葉だったと
信じております。



妻ドロシーの、この言葉の有効期限は
まだ切れていません。

私が亡くなるまで、
私がもう一度 妻に会いに行く日まで
ずっとずっと守らなければいけない
大切な約束だと思っております。


  
つづく

ドロシーの夫 タクミ

七夕の願い

ドロシーの夫のタクミです。



妻ドロシーの
3年前の七夕のお願い。


放射線の晩期障害で、顎の筋肉が固まり
口が開かなくなっていた頃。

上顎の壊死もあり、筋肉の移植の為に
顎を割る手術をして
がんセンターに入院中の、七夕の短冊の写真です。


結局、一度も口を大きく開けることも出来ず
食べ物を頬張ることは出来ませんでしたが
今頃は天国で食べまくっていることでしょう。

私と出会った頃のように
軽い二重あごに戻っているかもしれませんね。