1年
もうすぐ家の近くで花火大会。
思えば、去年、この花火大会の週末明けから、
完全不登校になった息子。
この花火大会が、息子が何のためらいもなく家から出た最後になる。(私とは別行動で、姪っ子達と縁日と花火見物。私は両親と花火だけ)
五月雨登校1週間を経ての週末で、
私の母に、学校いきーや!って言われて、
うん、と答えていた。
が、休み明けの朝。
どんだけ起こしても死んだように反応せず、
私は仕方なく仕事へ。
帰ってから、放課後だけでも、と働きかけたが、一切動こうとせず、、、
学校に行かせたい私とで壮絶な親子喧嘩の末、たった一度警察まで呼んだのがこの日だった。
この日以来、1日たりとも学校へは行っていない。
不登校の引き金を引いた夏
去年の夏休み。
中学に入り初めての夏休み。
山盛りの宿題に震えた。
中高一貫私立中学あるあるでは、
期末試験の後はお休みの学校が多いけど、
息子の学校は、短縮期間として学校はあった。
たしか、午前中だけだったのかな?
もう、あまり、覚えてない(泣)
その間に試験の直しの宿題と、
科目によれば早めに提示される夏休みの宿題。
テストの結果のふるわない息子は、当然、直しの量も多い。
夏休みだけでなく、この期間効率的に使わなければ終わらない量の直しと宿題。
しかも、夏休み中に合宿まである。
なのに、計画的に、なおかつ、自宅での勉強が苦手な息子は全然すすまない中で夏休みに突入。
予兆
思えば、この7月に、激しい膝の痛みを訴え、成長痛と診断された息子。
重たいリュックを背負うのを禁止され、
数日は学校の送り迎えをしたけれど、
片道車で1時間。
朝は仕事もあるので、キャリーにリュックを乗せて、送り迎えを駅までにしてもらった。
が、どうやら、満員電車でのキャリーは周囲の目が厳しく、息子が登校を渋るようになった。
今思えば、キャリーだけが理由では無かったのかも。
課題をこなすだけで必死(それも間に合わず)で、ほぼノー勉で受けた期末テストの返却もこの時期。
思ってた以上にふるわない成績に、
本人なりにショックを受けていたのかも。
なにせ、小学校時代は勉強に関しては自信を持ってたと思う。
塾もずっと難関クラスで、塾内模試だって上位10%にいつも入っていた(小規模塾なんで)。
成績が悪い!
を経験したことが無かったのだ。
授業そのものは理解できていたように思う。
私立中学なので、同じようなレベルの子達が集まる。
その中で否応なくつけられる順位。
下位になることは十分に考えられたし、
だからこそ、校内順位にそこまで拘らなくても良いと思っていたが、、、
息子は気にしてないように見えて、実はショックだったみたいで、、、
でも、それに気づいてあげることは出来なかった。
追い打ちをかけるような事しか言わなかったと思う。
だから、二学期始まってすぐの実力テストが終わった直後から、
こんな成績しか取れないから、学校に行っても意味がない!やめたい!
と言い出した。
その時の私には、突然の言葉だったけど、
振り返ると、突然なんかじゃ無かったんだなぁ(泣)
体力不足
片道1時間の通学時間。
朝学に間に合うために学校につくために、
家を出るのはどれだけ遅くても7時。
元々体力の無い息子には、通学そのものが負担になっていった。
帰りの電車は良く寝過ごして最寄り駅からかなり遠くまで行って戻ってくることもしばしばあった。
小学生の時から朝は苦手で、血圧だけなら、起立性調節障害の範囲内。
その時はわからなかったけど、ASDの特性としても朝が苦手なのだそうだ。
終わらない課題に追われてどうしても寝るのが遅くなる。
疲れ果て、お風呂で寝てしまうこともしょっちゅうだった。
気がつけば朝までお風呂にいる事も、、、。
怒られながら起きて、トイレにこもり、
なんとか家を出て学校へ行く。
しんどかっただろうなぁ。
今ならそう思える。
小学生の頃から朝が苦手なんだから、
近くの学校にしとけば良いと思うけれど、
まだまだ幼い小学生に、
毎朝の大変さは想像できない。
せっかく合格した熱望校に行かない選択肢は無かった。
思えば、なるべくしてなった不登校なのかも。
不登校となって
何度も書いてるが、
不登校の最初の1ヶ月は、荒れに荒れた。
今の学校に行けない自分の人生はもう終わった。
生きる意味なんてない。
でも、自分では死ねないから殺して。
ママのせいでこうなった。僕の人生を返してよ!!
もう、僕にはゲームしか残ってない。
今までの息子とは全く変わってしまい、
表情がなくなり、笑顔が消えた。
常にイライラしていて、モノに私に当たり、
暴言の嵐。
好きなはずのゲームをしていても、
少し負けたり思うようにいかないと、
キレてモノに当たる。
ないと困るはずのSwitchを2台とも壊し、Switchを繋げていたモニターと、2回の寝室のTVも壊した。(この頃はまだ、2回の自分のスペースで過ごしていた)
Switch、修理するか迷ったけど、
ゲームしか残されていないと荒れる息子に
修理して欲しいと懇願され、
ちょっとした勉強と引き換えに修理した。
ま、その勉強もほどなくやらなくなったけど。
この状態の息子からゲームを取り上げる事の不安の方が大きく、
修理とともに、もはや、意味はないと制限も解除した。
この頃から、息子は、2階へは上がらなくなり、24時間リビングで過ごすようになった。
昼夜逆転になったので、2階へ上がるタイミングが無いのだろう。
ゲームに疲れて、リビングでゴロンと横になってそのまま寝落ち、な感じだと思う。
そこから、約半年以上、息子が2階へ上がる事は無かった。
なので、息子に見られたくないもの(買い置きのお菓子とか)は2階へ隠すようになった(笑)
ただ、荒れていたとは言え、
この頃はまだ、毎週末は実家へ行き、本屋などは、車でだけど出かけられていた。
実家では皆と一緒に外食へも出られていた。
間隔は開いていたけどお風呂にも入っていた。
が、年末に近づく頃から、
実家には行けても、外食にはでられなくなり、
年末年始に、2週間ほど実家で過ごし、自宅に戻った年明けから、7カ月。
一度だけ姪っ子の誕生日に弟の家に行った以外一度も外へ出ず、もちろん外食もできず、
完全な引きこもり状態に。
お風呂も長い時は3ヶ月間入らず、昼夜逆転ゲーム漬けの毎日を贈るだけ。
ゲームと食べること以外は全てに無気力。
4月に結局一人で受診した発達外来で、うつ状態であるだろうと言われ、ASDの診断がおりた。
もう、見守るしか無かった。
ただ、その反面、息子は、良くも悪くも現状維持で落ち着いていき荒れることは少なくなった。
11月から始めた訪問カウンセリング、
そして、カウンセラーのすすめで4月から始めた家庭教師。
どんな形にせよ、家族以外の大人との関わりも息子の刺激になったのだと思う。
カウンセラーはもちろんの事、
こんな息子に偏見も見せず受け入れてくれた家庭教師の先生、
いつも変わらず息子に接してくれる両親と弟家族中でも姪っ子三姉妹
には感謝しかない。
そして、6月27日、私の誕生日の
2回目の発達外来。
わざわざ自宅まで来てくれて、息子を家から出すのを手助けしてくれたカウンセラーの尽力で、半年以上ぶりに言えを出た息子と2人で受診できた外来をきっかけに、
この日以来、一切外に出なかった息子に変化が出始め、
外食目的であれば、車で外に出かけることができるようになった。
もちろん、毎回成功するわけじゃないが、
成功率は格段にあがっている。
半年以上ぶりに実家に行くこともできた。
散髪、銭湯、実家での入浴もできた。
まあ、また、あれから1ヶ月、お風呂には入っていないが、3ヶ月を思えば、まだ1ヶ月ちょい(笑)(笑)
何より、表情が明るくなり、笑うようになってきた!
私との会話も増えてきた。
この間の外来で、先のことを考えるのはまだまだ無理だとは言われたけれど、
でも、少しづつではあるが、
前進してきているようにも思う。
もう、見守りながら、ちょっとずつ刺激しながら、息子のタイミングを待つしかない。
不登校になったからこそ気づけたこと
息子が不登校となり一年。
今まで考えたことも無かった世界に踏み込むことになった。
そして知る、
不登校の奥深さ、
世の中に不登校に苦しむ人の多さ、
何より、
世間の理解不足
息子が不登校になったからこそ知ることができた。
もちろん、この不登校ブログでの出会いも大きい。
そして、息子の心も、
不登校と言うSOSが無ければ、
気がつくこともなく、更に追い込んでいただろう。
もしかしたら、取り返しのつかない事になっていたかもしれない。
もちろん、未だ、不登校は受け入れられてないし、
できることなら、
学校に行って欲しい!
持って生まれた、その恵まれた才能を活かしてほしい!
そんな思いは、消えることはない。
でも、息子の人生は息子のもの。
自分の人生の責任は自分で取るしかない。
共に乗り越えることはできても、
変わってあげることは出来ない。
この先、少しでも早く、
自分から、
息子が前に歩き出せるよう、
見守りつ、水面下で動くしかない。
と、いいつつ、
未だ動かない息子にイライラしたり、
暴言に我慢ができずにキレたり、
なかなか理想通りには動けない母なんだけどね、、、(笑)
