どもっす。。
ベルリン観光個人ガイド
旅のデザイナー 後藤裕起子です

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音譜

先日お客様とプロイセン王国の話しをしていました。

いつ頃この王国が何処に出来たのか。。



昔々のおチューリップピンク はチューリップ黄 なチューリップ赤 しチューリップ黄


時代はまだ神聖ローマ帝国という国があった頃。
選定王がここベルリンを中心としたブランデンブルグ地方を
派遣王として統治していました。


その家が、ホーエンツェーレンというお家。
日本にも、江戸時代に徳川家というお家があった
そんな感じです。。


17世紀初頭にプロイセン公国を継承し、
次第に勢力を拡大して行きました。

まじかるクラウン

そして、
ポツダムのユネスコ世界文化遺産に指定されている
サンスシー宮殿を建設した

フリードリッヒ大王の祖父、父の時代に
組織をがっちり作ることに成功しました。

どんな組織を作って行ったのか
気になる所、、。

常備軍、租税制度、官僚制度を完備したと言われています。

基本的に、
このホーエンツォーレン家がここブランデンブルグ地方を統治したのですが、

この地元の人間ではなかった。

じゃあ、何処からおいでになっていたのかはてなマーク

シュトットガルトの近くのハッキンゲンという所に
かなり大きなお城を築城していました。

ホーエンツォーレン家の方々は、
所謂よそ者であったので、

軍隊を設けることによって、
元から住んでいた領内の領邦達を

貴族達は軍人、官僚として国家に奉仕をする
そんな体制を作っていたんです。


それによって、
国としてこの制度である中央行政制度が整備され
うまく機能して行く様になります。

絶対封建主義と言われるのが、
この時代です。


それと同時に、
農業、商工業を振興させて行きました。


しかし、
日本に於ける絶対封建時代とは
タッチがエラク違うんです



じゃあ、どこがちがうのかはてなマーク

それは折りに触れてお話しさせて下さい。
何とも長いお話しになっちゃうんですね。。

メモ


特注すべきことは、
30年戦争でカトリック諸国から追放された
ユグノーというプロテスタントを大量に受け入れています。


ベルリンで一昨年から大量の難民を受け入れていますが、

それは今始まったことではなく、
すでに300年前にその種は蒔かれていたんですよね〜ビックリマーク

きっと 、、、ネ
目


プロイセン王国が神聖ローマ帝国に認められて、
1701年建国

まじかるクラウン
初代の王様フリードリッヒ1世は
何処で戴冠式を行ったかというと、
ローマからう〜んと離れているケーニクスベルグ。



この町は、
1945年の第二次世界大戦終了後は
ロシアの領土になっています。


そして町の名前も
カリーニングラードと命名されました。

さくらんぼ

さて話しは再びプロイセン王国時代に戻しますと、、。

プロイセン王国3代目の王様は
フリードリッヒ大王と呼ばれ、
国民から慕われました。


彼は、先代のお陰で、
安定した国を築いていきます。


と言っても

自分の意に反して戦争をしなければならなかった
そんな宿命を持って生まれて来ました。

王様であり、自分の墓も生前に作っておきながら、
お墓に入ったのは、
亡くなって200年以上も後のこと。

あし



この画像は、

音楽をこよなく愛し、
自らもフルートを弾き100曲以上のソナタを書いた
フリードリッヒ大王の最も愛した

ポツダムサンスシー宮殿の
コンサートのお部屋です。


JSバッハの次男がプロイセンの音楽監督を務めていたのは
有名な話しです。

ルンルン

読者の皆様
汲めども尽きないベルリンに眠る歴史の数々

いつかまたお話させて下さいね。


プレゼント本日も弊ブログにお立ち寄り頂きまして誠にありがとうございましたラブラブ