緑の灯火 175 【杭夫】  

2024 09 15 (Sun)
 
「抗夫」について大島さんとカフカの会話。
 
 昨日の「海辺のカフカ」のブログに、カフカは漱石の『抗夫』を読む箇所がある。図書館司書の大島さんに感想を聞かれる。
 
 大島さんとカフカの会話
 
 「ここに来てからどんなものを読んだの?」
 「今は『虞美草』、その前は『杭夫』です
 「杭夫か」と大島さんはおぼろげな記憶を辿るように言う。「たしか東京の学生がなにかの拍子に鉱山で働くように なり、杭夫たちに交じって過酷な体験をして、また外の世界に戻ってくる話だったね。中編小説だ。すっと前に読んだことが あるよ。あれはあまり漱石らしくない内容だし、文体もかなり荒いし、一般的に言えば漱石の作品の中でもっとも評判のよくない もののひとつみたいだけれど・・・君はどこが面白かったんだろう」
 僕はこの小説に対してそれまで漠然と感じていたことを、なんとかかたちのある言葉にしようとする。でもそういう作業は カラスと呼ばれる少年の助けを必要とする。彼はどこからともなくあらわれ、大きな翼をひろげて、幾つかのことばを僕のために 探してきてくれる。僕は言う。
 「主人公はお金持ちの子供なんだけど、恋愛事件を起こしてそれがうまくいかず、なにもかも嫌になって家を出ます。 あてもなく歩いているとあやしげな男から杭夫にならないかと誘われて、そのままふらふらとついていきます。そして足尾銅山 で働くことになる。深い地底にもぐって、そこで想像もつかない体験をする。世間知らずの坊ちゃんが社会の一番底みたい なところで這いずりまわるだけです」
 僕はミルクを飲みながらそれにつづくことばを探す。カラスと呼ばれる少年がもどってきて暮れるまでまた少し時間が かかる。でも大島さんは我慢強く待っている。
 「それは生きるか死ぬかの体験です。そしてそこかrなんとか出てきて、またもとの地上の生活に戻っていく。でも 主人公がそういった体験から何か教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会の在り方に 疑問をもったとか、そういうものは特に書かれていない。かれが人間として成長したという手ごたえみたいなもあまりありません。 本を読み終わってなんだか不思議な気持ちがしました。この小説はいったい何を言いたいんだろうって。でもなんていうかな、 そういう『なにがいいたいのかわからない』という部分が不思議に心に残るんだ。うまく説明できないけど」
 「君が言いたいのは、『杭夫』という小説は『三四郎』みたいな、いわゆる近代教養小説とは成り立ちがずいぶん違う ということかな?」
 僕はうなずく。「うん、むずかしいことはよくわからないけど、そういうことかも知れない。三四郎は物語の中で 成長してゆく。壁にぶつかり、それについてまじめに考え、なんとか乗り越えようとする。そうですね。でも『杭夫』の主人公は ぜんぜん違う。彼は目の前に出てくるものをただだらだらと眺め、それをそのまま受け入れているだけです。もちろんそのときどきの 感想みたいなものはあるけど、特に真剣なものじゃない。それよりはむしろ自分の起こした恋愛事件の事ばかりくよくよと振り返 っているだけです。そして少なくとも見かけは、穴に入ったときとほとんど変わらない状態で外に出てきます。つまり彼にとっては、 自分で判断したとか選択したとか、そういうものなほとんど何もないんです。ねんていうのかな、すごく受け身です。でも 僕は思うんだけど、人間というのは実際には、そんな簡単に自分でものごとを選択したりできないもんじゃないかな」
 「それで君は自分をある程度まで『杭夫』の主人公に重ね合わせているわけかな?」
 僕は首を振る。「そういうわけじゃありません。そんなことは考えもしなかった」
 「でも人間はなにかに自分を付着させて生きていくものだよ」と大島さんは言う。「そうしないわけにはいかないんだ。 君だって知らず知らずにそうしているはずだ。ゲーテは言っているように、世界の万物はメタファーだ」
 僕はそれについて考える。
 大島さんはカップからコーヒーをひとくちすする。そして言う。「いずれにせよ漱石の『杭夫』についての君の意見は 興味深いものだったよ。とりわけ現実の家出少年の意見として聞けば一段と説得力がある。もう一度読んでみたくなった」
 
 
漱石の『抗夫』を読む。
 
 漱石の『抗夫』はけっこう長い小説。出だしの主人公が松林の中を歩く描写がいい。いつまでも続く松林には で出口がないように思える。恋愛事件を起こし死ぬ場所を見つける設定になっているが、どんな恋愛事件なのか、 なぜ死にたいのは、漱石の明確な言及はない。
 あとで主人公は炭鉱に入るが、炭鉱(足尾銅山)は竪穴と横穴の迷路で、竪穴はぬるぬる滑る梯子を頼りに 下りる。横穴には腹ばいにならないと通れないような坑道がある。水がわき出す坑道もあり腰のあたりを浸して 進む。中には、鉱石の残渣を捨てる深い溝がある。梯子を使ってほぼ垂直の竪穴を登るのは体力を使う。出だしの 松林は、この坑道の迷路を暗示しているのだろう。
 鉱山で働く労働者は、現世から逃げ出した人たちでほかに行くところもなくここで人生を送るものが多い。
 中には知的な人(たとえば地底で会った安さん)がいて、鉱山を抜け出して現世に戻れと勧める人もいるが、主人公は聞く耳をもたす、 坑内にとどまり続けようと思う。結局身体検査で気管支炎と診断され、坑夫になれず東京の戻る。当時、気管支炎は結核の前兆で結核は不治の病であった。
 
 
二種類の小説。
 
 漱石は小説を
①「筋の推移で人の興味を牽(ひく)く小説」と
②「筋を問題にせず一つの事物の周囲を躊躇徘徊(ちゅうちょていかい)することによって人の興味を誘う小説」

に大別する。
 
 前者①では、主題やモチーフを提示し、ブロットや事件の展開がある。『三四郎』、『それから』、『門』。
 後者②では、筋らしい筋ももなく、いつ終わっても構わない。『吾輩は猫である』、『草枕』、『抗夫』。
 『猫』はサタイア、それは風刺というよりも知的ペンダントリー、絶え間ない饒舌、社会的な価値体系の逆転など の特徴つられるが、筋らしいものはなく、いつ終わっても構わない。『草枕』も俳味、禅昧、非人情を売り物にし、 一種の感じ―美しい感じが残りさえすればいい。それ以外に特別な目的があるわけではない。
 
 『海辺のカフカ』の中のカフカは、甲村図書館の閲覧室で『抗夫』のあと『虞美人草』を読む。そのとき、
 「僕はもともと速く読む読書家ではない。時間をかけて一行一行 を追うタイプだ。文章を楽しむ。文章が楽しめなければ、途中で読むのをやめてしまう」
という。 
 私(このブログの著者:GreenLight)は物語の筋の展開の速いものが好みだったが、この「原書で読む 世界の名作」では、ある意味では、翻訳修行として精読している。表現の細部に美しさを求めているが、やはり、 主題、テーマ、プロットが明確な方がいい。
 
 でも漱石自身が、小説には①と②の二つに分け、初期には②、次第に①に移っていく。
 わたしは初期の作品により魅力を感じる。
 
 つづく