緑の灯火 171 

2024 09 05 (Thu)
 
日日是好日(にちにちこれこうにち) 
 
 久ぶりに総持寺。同じ坐るなら坐禅堂で座るも、自室で座るも同じだろうと思っていたが、環境が重要な意味を もつことを再認識する。
 私鉄に乗り、JRに乗り、鶴見で降りて、 参道を歩く。
 山門を入って左側の小高い丘の上に、観音様の像が立っている。浄土宗系で西方浄土からお迎えに來る観音様 がなぜか、禅宗のお寺の境内に立っている。
 そうか。バラモン教、ヒンズー教、日本の神話の神様が禅宗のお寺にいてはる。そういえば、山門を入ると、 左右に仁王様みたいな筋肉隆々の守護神のペアの像がある。仏敵を退散させる武器)を持つ。 開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。  こういう話を聞くと、あまり細かいことを気にするなと言っているようだ。おおらかな気持ちになる。
 
 三松閣という建物の講堂で、座禅開始を待つ。
 その過程でだんだんと参禅の心の準備・心構えができてくる。
  
 残暑が厳しい。坐禅堂の窓、障子が開け放たれている。カラスの声、ニイニイゼミ、鐘の音、修行僧たちが唱和している般若心経の唱和。 廊下を走る子どもの声。
 坐禅堂には空調はない。ときどき窓から、生温かな風が窓から入ってくる。まだ秋の気配はない。
  
 一ちゅう(40分)目は結跏趺座で座る。脚がしびれて立ち上がれない。やっと歩行禅。二ちゅう目は最初から半跏趺座で座る。 それでも途中で左右の足を組み替える。
  
 ヨーガでは痛さに意識を向け呼吸を送り、集中する。ならばと、脚の意識を集中し呼吸を送るが、なにしろ二ちゅう (80分)は長い。
 でも、姿勢は良くなっている。百会から100円玉を落とすと肛門からチャリンと出てくる。呼吸もやや長い、深い呼吸 ができるようになっている。
 あと二・三キロ減量ができれば、結跏趺座でも二ちゅう座れそうな気がする。たぶん、ヨーガや太極拳、ABの相乗効果 かもしれない。楽観的、前向きに考えよう。そしてこの参禅の効果が、ヨーガや太極拳、ABに好影響を与えているかもしれない。
  
 「日日是好日(にちにちこれこうにち)」:毎日は常に新しく、かけがえのないものである。
  座法の外の、いろいろな、当面のテーマがある。 ① 呼吸法、② 半眼、③ 止観。
 
 ① まっすぐな姿勢。背骨はまっすぐ。他の筋肉はゆるめる。
 ② 呼吸。
 ③ 理屈でわかろうとしない。心を空っぽにする。曹洞宗では、座禅中は特定のテーマを考えない。ある考えか浮かんで きてもほおっておく。気にしない。
 
 無:本心とは、誰もが持つ何も生じない心のこと。自己の心に何も生じない状態を指す。
 自分の心が何ものとも同化できる状態。桜にも、山川草木になれる。
  
 誰もが持つと言っても、いますぐ自分は、自分の心は、桜に木になれない。
 なれないと思うからなれないのであって、なれると思えばなれるのかなあ。それとも、何十年も座禅をしなければなれないのかなあ。
 それは知識で得るものではなく、肌で感じるもの、センスなのだ。座禅を組み、その無を感じ、妄想や想像、知識といった 俗世から離れ、心の根本を見つめるのだ。
 そうか、坐禅を組んで、俗世から離れるのだ。でも、俗世から離れようと(目的をもって)座禅をしてはいけないのだ。
 
 
Imostor Scam : なりすまし詐欺 『日本からは見えないアメリカの真実』 旦英夫 PHP \1,300 
 
 Impostor scam come in many varieties, but work the same way; a scammer pretends to be someone you trust to convince you to send them money. Learn how to spot an imposter scam.
 
 なりすまし詐欺には多くの種類がありますが、仕組みは同じです。詐欺師は、彼らへの送金を説得するために、あなたが 信頼する人になりしましますのです。なりすまし詐欺を見抜く方法を学びましょう。
 
 impostor scam は なりすまし詐欺。 impostor は 他人を詐称する人のこと。 動詞は impersonate.
 scam は 詐欺、ぺてん。詐欺を働く。
 
 米国の政府機関は、公式の通知には郵便(U.S. Postal Service)を使います。電話や電子メールで送金を指示したり、 個人情報を要求することはありません。不審な電話や電子メールを受診したら、信頼できる友人や家族や相談しましょう。
 
 
【風の音を聴け】 村上春樹 講談社文庫 \580
 
 
 夏休みに湊の街に帰ってきた大学生〈僕〉の全40章の断章から成る物語。
 一夏を経て友人の〈鼠〉とも小指の無い女の子とも結局はすれ違って終わる。群像新人賞受賞のデビュー作。
 
 あらすじ
 絶版になったままのデレク・ハートフィールドの最初の一冊を僕が手に入れたのは中学3年生の夏休みであった。以来、僕は文章についての多くをハートフィールドに学んだ。そしてじっと口を閉ざし、20代最後の年を迎えた。
 東京の大学生だった1970年の夏、僕は港のある街に帰省し、一夏中かけて「ジェイズ・バー」で友人の「鼠」と取り憑かれたようにビールを飲み干した。
 僕は、バーの洗面所に倒れていた女性を介抱し、家まで送った。しばらくしてたまたま入ったレコード屋で、店員の彼女に再会する。一方、鼠はある女性のことで悩んでいる様子だが、僕に相談しようとはしない。
 彼女と僕は港の近くにあるレストランで食事をし、夕暮れの中を倉庫街に沿って歩いた。アパートについたとき、彼女は中絶したばかりであることを僕に告げた。
 冬に街に帰ったとき、彼女はレコード屋を辞め、アパートも引き払っていた。
 現在の僕は結婚し、東京で暮らしている。鼠はまだ小説を書き続けている。毎年クリスマスに彼の小説のコピーが僕のもとに送られる。
 
 多くの村上作品では、作品の主題とストーリが一致しない。あるいは、主題がなにかわからなかったり、ストーリーに 一貫性がない。
 
 『 風の歌を聴け』ではこのような実存的な主題はない。主人公は何かを乗り越えるわけでもなければ、恋愛に 悩んでいるわけでもない。何かよくわからない喪失感的なものを漂わせながら、パスタを茹でて淡々としている。
 
 この作品も主題がわからない。
 最初に読んだときも、わからない。二回目に読んだときもわからない。そして今回もわからなかった。
 
 あえていうならば、あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれは捉えることはできない。
 僕たちはそんな風にして生きている。
 ただ、『風の歌を聴け』