読書日記 183
『神々と未知なる遭遇』  河合隼雄 立花隆 中公文庫
2024 05 21 (Tue)  
 
 宇宙飛行士たちにインタビューをした立花隆の『宇宙からの帰還』がある。飛行士の幾人かは、宇宙で神々と未知なる遭遇をしたという。 彼らの出会った神は、必ずしも伝統的キリスト教の神ではない。
 この「人類と宇宙の未来『宇宙を語る』」の本の中では、立花隆と河合隼雄が、宇宙飛行士たちに宇宙体験について語り合う。
 
【立花隆 たちばなたかし】
 1940- 東京大学仏文科卒後、文芸春秋社に入社。文春記者になる。66年退社、東京大学哲学科に学士入学。ジャーナリストに。
 著書:『文明の逆説』『田中角栄研究全記録』『日本共産党の研究』『「知」のソフトウェア』『立花隆100億年の旅』『脳を鍛える』 『僕はこんな本を読んできた』『宇宙からの帰還』『宇宙を語る』など
【河合隼雄 かわいはやお】
 1928- 京都大学理学部、同大学大学院卒業、名誉教授、専攻は臨床心理学 
 著書:『ユング心理学入門』『無意識の構造』 
 
 戦慄と魅力、その両方を含んだ宇宙体験
 
95 河合:『宇宙からの帰還』の中で、アメリカの宇宙飛行士が宇宙で紙の存在を感じたということで、飛行士にインタビューに行ったという。 
立花:宇宙に行けば必ず宗教体験をする、ということではない。また、ずっと船内にいた人とと宇宙を遊泳した人、地球軌道だけを回っていた いた人と月に降りた人とでは体験内容がちがう。 
河合:神の存在を感じたという人でのあいだでも、既存宗教、つまりキリスト教的枠組みの中で語っている人と、そうでない人がいましたね。
97 立花:すべての人が、古典的な宗教が想定している(自由意思を持つ)「人格神」的な 存在を考えているわけではない。
 そうでない人が多い。それでも、サムシング・デバインがあることは認めている。
98 河合:私も宇宙飛行士にインタビューをしたことがある。「神の存在をどうおもいますかと訊ねたら、彼が いったののは「天の上に髭を生やした偉大なやつがおって、そういつがなにもかも知っているというような神の存在を 私は否定する」ということでした。
立花:何人かの宇宙飛行士が言っていましたが、われわれはキリスト教のバックグラウンドがある。そのうえで こういう経験を経て、そういう考えに到達したという面がある。
河合:臨死体験の記述にも、その人の宗教的バックグラウンドで話が変わってくる。仏教的な人が心理体験をすると 三途の川を見たりするけど、キリスト教はそういう話はきかない。意識が変容した状態で見たものを、どう言葉で表現 するかはmその人のそれまでの生きてきた言語や文化の体系によるところが大きい。 
 
 自然科学と一神教
 
99 河合:われわれが宗教について考える場合には、片方に科学という問題が常に出てくる。今の科学は大部分 西洋から来たもので、キリスト教の影響がものすごい。キリスト教は一神教で ひとつの神がつくりたもうた世界だから、一つに意思というか、一つの理論は完ぺきな体系があるはずだという強固な 確信がある。その確信に基づいて、科学をやっている人たちも論理的整合性のある世界を必死に求め、 そういう体系をつくりあげていった。
 だから、キリスト教と科学は反対のものと考える人が多いけれども、僕はキリスト教が近代科学に貢献している というか、それを支えた面があると思っているんです。
100 立花:たしかに、その両面ありますね。
河合:ところが科学が発達してくると、経典に書いてあることとは反対のことが、いろいろと出てきます。たとえば、 いくら探してもノアの方舟はなかなか見つからない。そんなとき、「そんなものは見つからんでもいいわ」と言って、 ほおっておくことができない。絶対的に整合した世界をつくらんといかんわけですから、そうすうrと、キリスト教を支えに 生まれてきた自然科学が、今度はキリスト教に対して強烈なマイナスのインパクトを与えてしまう。それこそ宇宙飛行士 の人なんか、ああいう人格神的な宗教は、そう簡単に信じられないということになってくる。 
立花:そうですね。キリスト教でとくにプロテスタントは、いろんな宗派に分かれてきていますが、非常に明確に 人格神離れを遂げてしまったプロテスタントのような宗派が、アメリカを中心にかなり出てきています。その対極に、 サザンパブティストみr¥たいにファンダメンタリストがまだたくさんいるわけです。東部のエスタブリッシュたちの 世界で力を持っているキリスト教は、ほとんど合理化されたものですよね。
立花:そうですね。そうです。あれはキリスト教、あるいは宗教と呼べるかどうか。あえていえば 社会倫理的集合体というのかなあ、そういう感じがありますね。
 そういう合理化された宗教は、どこまで宗教と名づけていいのかという問題はありますが、その合理化の動因となった ものは、やはり科学によって与えられた世界観以外の何者でもないと思うんです。
 東部のアメリカ人なんかをみて思うのだけど、キリスト教の教会というものにいっていなかったら、社会性がなくなる わけですね。だから、そういう合理化された宗教は、社会的にも意味を持っているし、倫理的にも意味を持っている。
立花:そうですね。生活宗教みたいになっているところがあります。 <
河合:便宜性という点では、日本の結婚式は神式で、葬式は仏式でというのと似ているところがあります。 
 なんといったって、神様に祈らなくても、うまく月に行って帰ってくるわけですから、しゅうきょうもそういう 合理性の方向性が強くなるのは当然です。ただ、自然科学で言えないことが絶対にある。自然科学はそのへんで非常に 禁欲的で、言えることは言う、言えないことは言わない。たとえば、「来世はあるのか」とか 「自分の生まれる前に何だったか」というようなことについて、自然科学は何も言わない。黙っているのは自然科学なんです。
立花:人間は、なにより知りたいことを欲する動物です。知りたいという欲求が人間にはものすごくあって、 それがわれわれの文明をここまで導いてきた。ただ、「いくら知りたくても知ることができない、原理的に不可知な 領域というのがある。それを知りたいということになると、あとは宗教的な、あるいは神がかり的な方法によって 一挙に説明してしまうしかない。
 
 [本物]の霊能者、「偽物」の霊能者
 
103 立花:わけが分からないのが現在の日本の宗教状況ですよね 新興宗教の信者数を全部あわせると、人口の 倍になるといわれています。
河合:日本でも外国でも、有名な建築家が新しい建物を建てるとき、拝み屋さん的な人のところに行くことがよく ある。それで「今度こういう建物を設計することになりました」というと、拝み屋さんは拝んでいるうちにお告げが下りて 「入り口は三階にせよ」という。もちろん、そのイメージを全体の中で建築家がどう具体化するかは、自然科学の力です ね。それとイメージをあわせると、ものすごいおもしろい建物ができるというんです。
 いつものように設計していると、途方もなくおもしろいひらめきというのは出てこない。だから、お告げの方から ひらめきをもらう。それは一つのイメ―ジをもらっている。そのイメージを自分が持っている自然科学の能力をぶつけて みる。
 政治家でも、お告げをとのまま聞くんじゃなくて、一度、自分の持っている政治能力の体系とぶつけてみる。
 人間というのは残念なもので、一つの訓練をうけてくると、それを突き破る イメージというのがすごく出にくい。
 下手な人は、イメージをもらうんではなく、正しいファクトをもらっていると思って しまう
 だから、僕はああいうことをやっている人で、すぐにファクトに結びつけてものを言う人、それから現世の利益(りやく) にさとい(聡い:敏感)人は、みんな偽物やと思いますね。ひらめきがあるのは、現世の利益から遠いところに生きているから なんです。霊能者とか言うてるひとたちも、偽物がおおいでしょう? あれは、ちょっと儲かった途端に、みんな堕落するから なんですよ。初めのうちは何らかの能力があったと思うんです。でも、次ぎにどうして儲けようかなんて思っているいちに、その 能力が消え失せてしまいます。
107 本物と偽物とは見分けられない。たとえば三階に入り口を作れと言われて素晴らしい建物をつくったとすれば、あの お告げは本物ということになるけれども、それはむしろ建築家が偉いからでしょう。大失敗したら、お告げは偽物やったという ことになるかもしれない。だから、いう方は勝手に言うとるんであって、それを本物にしてみせるか、偽物にするかというのは、 本人の問題であると考えた方がいい。
 僕は霊能者というのを、「無意識の世界と、うまくコンタクトできる人」と、それほど不思議な存在ではないと思うんです。 我々は、表層的な意識状態をもっている。もっと深いところではいろいろな情報をキャッチしている可能性がある。自分の意識状態 を訓練することで変え、そういう無意識の世界の情報とコンタクトすることができる人たちが、やっぱ入りいるんです。
107 しかし一方で、そういうふうに意識状態を変えていくと、これはもう精神病の世界に非常に近い。金が儲かりだして、表層的 な現実の方に注意が向いてしまうと、その能力が消えることもある。消えたあとはいかさまをやって金だけを儲け続けることになる。 
108 立花:そうなんですね。無意識の世界にかかわってくると、本当にイカサマが多いけど、本物もある。 
河合:人間は、ス通に生活しているとそんな能力の必要性は感じない。ところが、極端に不幸に見舞われたり、予期せぬ事態 に追い込まれたりすると、人間というもは弱いもんだから、何か自分の意志を超えたものに頼りたくなる。そういう時に 拝み屋さんの所へ行って、幸か不幸かあたっりすると、あとは完全にいかれてしまう。 
 だから、自然科学が発達して、全体としては馬鹿げた宗教がだんだん減っていても、一種の補償作用みたいに、そういう環境は しぶとく残っていくんじゃないかという気がします。
 
109 立花:人間というのは、結局、とことん信じたいことだけを信じる動物でしょう。だから、ああいう宗教の教祖たちは、みんな 明確な表現をしないんです。あいまいな表現であいまいなことを予言する。解釈によって当たっているとおもえるときもあるし、解釈次第では どちらともとれる場合は、信じたいと思っている人は、常に当たった方向に解釈しようとする。 
河合: そう、だから、べつに当たらなかったってかまわないんです。あたらなかったら、信者の方は、「自分の信仰が足りなかったから」と おもえばいいんです。何も神様が悪いと思う必要はない。それで、いったんそちらの方向に流れ出すと、もうどめどもなくいってしまう。 
 
 科学による説明は「救済」を与えてくれない
 
110:立花:哲学の命題というものは、いくつかのものを除いて、いまは自然科学における問題に置き換えられつつある。しかし、それがいったい どこまで問題を解決したかというと、まったく解決していないんですね。「物質の本質」「世界の始まり」「死後の世界の有無」・・・。 そういった問題は、そもそもどうやって知るかという方法論がないわけです。方法論がないものは、科学として成立しえない。ところが、 原理的に知る方法がないものの側に、実が人間が最も知りたい根本問題が残されている。 
 科学者はそこで知的に禁欲して沈黙する。
113 宗教の意味合いが、世界解釈だけではない。もう一つの重要な役割は、救済が有ると思う。この世で、 救いを求めている人間はいっぱいいる。各宗派の周辺には、その神を信じることによってきゅさいを得たというひとが必ずいて、それが宗教を成立 させている。ですから、宗教の世界解釈を求めるほうはどんどん合理化されているけれども、宗教に救済を求めている方の人たちは、信じたいものは ともかく信じるんだという形でいくんじゃないか。その両方にわかれていくんじゃないかという気がします。
河合:たしかに自然科学というものは、一番強力で普遍性を持っている体系だけれども、それがすべての世界観を支えていると思い始めると 間違うと思うんです。世界観というものは、もっといろいろなことが入ってくるわけですからね。自然科学で説明できないことは、いっぱい出てくるし、 それが救いをもとめたいという気持ちにもつながってくる。
 
 お医者さんが治せない病気やから、そういうところで治る
 
116 河合:これからは、心理療法的なものと、宗教的なものが引っ付いた形のものも、いっぱい出てくるでしょうね。カリフォルニアでは、 いろんな宗教がつぎつぎでてくると同時に、いろいろなセラピーがつぎつぎと出てきます。 
立花:医療行為に類似した行為というふうに広げて考えれば、それが宗教の中に組み込まれているケースは、日本でもそうとうありますよね。 
 手かざしというのも、みんなそうです。
 ポーランドで見たのですか、いっぱいやってくる人に、手かざしをしていく。何も聞かないでパッパッパとやっていく。
河合:問診はなしですか。 
立花:なしです。どこが悪いかわからないようなのは、本物の超能力者じゃないわけです。 
118 河合:手かざしをして治ることもあるかもしれないが、手かざしをしたらかならす治るということではない。みんなそんなことはもともと 期待していないんですが、万が一治ればいいと思っていいっている。しかしまた、治る人があることは事実ですよね。それは嘘じゃない。 
 だから、ようあるでしょう。新興宗教が、医者が治せなかっら病気をなおしたというて威張ってる。けれどそれは、お医者さんが治せない 病気やから、そういうところで治るわけです。病気の種類がもともとそっちなのです。近代医学では取り扱えない病気というものはやっぱりあって、 それを宗教が治すこともある。しかし、それは残念ながら因果的に言うことはできないと僕は思うんです。因果法則、セオリー、 教義ができたりすると、それはもうまやかしです。
118 立花:近代医学で、検査をして、ここがおかしいらしいということは出てくるんですが、その次にどうするかというのは勘みたいな ものですよね。そもそも、医学というのは病気を突き止めて、それを除いて治すという建前でやっているけれど、実際はそうじゃなくて、やっぱり 患者自身の「自然治癒力」に期待して、手当をしているのが基本ですよね。 
 
 「人格神」をめぐるジレンマ
 
120 立花: 
 
 未完。つづく