テーマー「うた」 245 穂村 上書き更新 現在日付
『わたしが一番きれいだったとき』茨木のり子 理論社 \1,400
2025 03 02 (Sun)
わたしが一番きれいだったとき
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
【補足】
「わたしが一番きれいだったとき」は、戦争によって青春を失った哀しさと虚しさと悔しさと、それでも生きていこうとする健気さが、正直に打ち明けられています。
茨木のり子さんは、昭和20年(1945年)当時、愛知から上京していました。帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現:東邦大学)薬学部の学生でした。この詩が生まれた経緯について、次のように語っています。
その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の無念さが残ったのかもしれない。
引用元:「はたちが敗戦」
この詩は、題名にもなっている「わたしが一番きれいだったとき」という詩句が、それぞれの連の先頭に置かれて、7回繰り返されているのが特徴です。
表現技法でいうところの、リフレイン(反復法)ですね。
同じ言葉を繰り返すことで、思いの強さが、連を追うごとに伝わってきます。
出展:https://mahoblog.com/ibaragi-noriko9/
テーマー「うた」 244 穂村 上書き更新 現在日付
『依(よ)りかからず』茨木のり子 理論社 \1,400
2025 02 24 (Sun)
依(よ)りかからず
もはや
出来合いの思想には依りかかりたくない
もはや
出来合いの宗教には依りかかりたくない
もはや
出来合いの学問には依りかかりたくない
もはや
いかなる権威にもには依りかかりたくない
もはや
心底学んだのはそれぐらい
自分の耳目
自分の二本足でのみで立っていて
なにかふつごうなことやある。
依りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
【補足】「倚りかからず」は、茨木のり子さんが73歳のときに出版された詩集です。天声人語でも触れられて、 ベストセラーになりました。
茨木のり子さんは1975年、49歳のときに、夫に旅立たれます。それ以降、31年間も独り暮らしを続けました。
前回 up した 「自分の感受性くらい」という詩は、独り暮らしをはじめてから2年後に書かれた詩です。
昔の国語の教科書でもよく見かけれました。
余談: ふとおもう 「不易流行」 [ふえきりゅうこう]
「不易流行」とは、俳人・松尾芭蕉が提唱した俳諧の理念のひとつで、「不易」と「流行」という対立する
言葉を組み合わせた四字熟語です。
「不易」とは、時代を通じて変わらない本質的なもののことで、「流行」とは、一時的に世間ではやる新しいもののことです。 「不易流行」とは、「不易と流行は本質的に同じであり、どちらも大切にしながら新しみや変化を探求すること」を意味します。 この考え方は、俳諧だけでなく、芸術やビジネスなど、さまざまな分野に応用できる普遍的なものです。
テーマー「うた」 243 穂村 上書き更新 現在日付
『自分の感受性くらい』 茨木のり子 理論社 \1,400
2025 02 16 (Sun)
自分の感受性くらい
ぱさぱさ乾(かわ)いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠(おこた)って
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立(いらだ)つのを
近親の性にするな
なにもかも下手だったわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目(ダメ)なこと一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄(ほうき)
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
【茨木のり子】 1926 6 12 生まれ 1937 日中戦争 1945 薬剤師資格取得、戯曲を書き始める 1953 同人雑誌「櫂(階)」川崎洋、谷川俊太郎 1977 『自分の感受性くらい』 1990 『依りかからず』 2006 くも下幕出血 死去(80歳)
このうたを何回アップしたことか!?
「心がパサついている」ことに気づかない日々を送ってきた。
ひとのせいにするまえに、気づくことが必要なのに。
「こころがしなやかさを失っている」のに気づかない日々を送ってきた。
ひとのせいにするまえに、気づくことが必要なのに。
多くを「暮らしのせい」にしてきた。もっと豊かな生活環境であったならば。
幼少のころより、欲しいものを欲しいと言えずに諦めることを覚えた。
会社生活で少し無理すれば手に入るのに、「暮らしのせい」と諦める習慣が支配していた。
駄目なものを時代のせいにしてきた。
そもそも「感受性」がかけていることを知らずに生きてきた、ばかものであった。
茨城のり子の詩を読むたびごとに、感受性への水やりをしてこなかったことを思う。落ち込む。
あと数年のいのち、おくればせながら水やりをしよう。