up 2019 12 08 (Sun)   ★★★ 「ヴィパッサナー瞑想のすすめ」 ★★★ 

・ アルボッレ・スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想法を連載中であるが、 今回は、哲学者、永井均(ひとし)さんの「瞑想のすすめ」を up する。 
 永井さんの、ヴィパッサナー瞑想の実践経験と、ヴィパッサナー瞑想の哲学者からの観点が面白い。 
・ 文中に「指向性」という用語が出てくる。この哲学用語が人間の心の動きを説明するカギのようだ。
・ 出展に日付をみると、5年以上経っているなあ。永井さんは今もヴィパッサナー瞑想を実践しているのだろうか。
 なお、このエッセイは、OS10への移行中にOS7のファイルの中で眠っていた。そのまま転記する。

 

 ヴィパッサナー瞑想のすすめ

 
 出展:永井均(ひとし)「瞑想のすすめ」  日経朝刊 2013 2 10 (Sun)   著者:1951年― 哲学者


 要約
 座禅は退屈。毎日やってみても何の効果も実感できない。世俗的な価値観を脱することが坐禅の本質だが。
 いまやっているのは、ヴィパッサナー瞑想。ヴィパッサナーとは「明らかに見ること」。バーリー語。原始仏教に依るもの。
 ブッダは「煩悩の流れをせき止めるものは何か」と訊かれて「気づく」「自覚する」ことと答えた。バーリー語の「サティー」。
 
 やり方は簡単。
① まず、坐禅の恰好で座り、呼吸に集中する。
② 次々と浮かんでくる想念にいちいち気づいて、明らかに見ていくこと。呼吸に集中するのはそのための手段に過ぎない。 
 座禅では、それらの想念を狭雑物(きょうざつぶつ)とみなす。
③ 浮かんでくる想念と一体化して、その立場にたって世界を見てしまわず、逆に、 客観的視点に立ってその想念を一つの出来事としてみること。 「鼻が痒い」と捉えずに、「そこにかゆみがある」と捉える。 同僚の誰かの姿が思い浮かび、「あの野郎~しやがった」と思ったなら、  そう感じているその立場に没入してしまわずに、 客観的視点から「誰々の顔が思い浮かんで、あの野郎~しやがってという思いが生じた」と見る。
④ 客観的視点に立てれば、それをたとえば「嫉妬」と本質的洞察することもできる。嫉妬している視点に没入してしまえば 「嫉妬している」という本質はけっして見えないが、客観視できればその本質を見ることも可能となるからである。
⑤ (だが、次の段階では、この本質的洞察それ自体もまた一つの出来事として見ることができなければならない) 
 
 哲学的な用語を使って説明する。
① 心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと、思ったことは客観的世界に届いてしまう。
 世界の客観的事実として「あの野郎」がなにか酷いことをしたことになってしまうわけである。
② すると、作られたその事実に基づいて二次的な感情も沸き起こり、さらに行動に移されもする。
③ その観点から世界の見え方が次々と自動的に膨らんでしまうわけである。
 
 志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観すればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも 頭の中で言葉をしゃべり続け、想念を流し続けている。
 ヴィパッサナー瞑想の標的はまさにこれなのだ。
 そうした想念の存在に気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想念の持つ志向性は奪われ、それが連鎖的に 膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも止められる。
 志向性が遮断されれば、心の状態は心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのもにになる。
 
 この世のあらゆる悩み・苦しみは、われわれがつねに頭の中で流し続けている想念のもつ志向性が作りだしたものなので、 それが生まれる瞬間を捉えて、それを単なる出来事として見ることができれば、われわれはあらゆる苦悩から逃れることが できるようになる。
 過去に届く後悔や未来に届く心配も、瞬間的にその届かせる力を奪われてしまうことになる。
 想念が膨らんでいく力を持ってしまう前に気づくことが重要なので、気づきは早ければ早いほどよい。だから、ヴィバッサナー 瞑想では退屈している暇はない。
 
 そしてヴィパッサナー瞑想は、坐禅と違って、坐っているときでなく一日中いつでもできる。電車の中でも、通勤電車の 中でも、歩きながらでも、食事をしながらでも。
 もし終日これを絶やさないことができたなら、あなたはもう仏陀(=目覚めた人)なのである! まあ、そこまで行かなくとも、 一日数十分ずつ半年ほどやってみただけの私にさえ、明らかな効果が実感できるのだ。
 
 例えば私は今朝、東京駅でちょっと急いでいたのでエスカレーターの右側を歩いて上がろうとしたところ、わたしの前の 若い男が、右側に乗ったくせに妙にのろのろと歩く。わたしはむっと来て「こっち側に乗ったのならもっと速く歩けよ」と 思った。その瞬間、「怒り」「焦るきもち」・・というサティが自動的に入って、 その気持ちが対象化され一つの出来事となって、しゅわっと消えたのである。
 以前なら無自覚に没入してしまったであろう感情の生起に、瞬間的に気づくことができたわけである。
 まあ、いつもこんなにうまく行くわけではないが、この程度の効果があることは確かである。
 
 座禅が、煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は、 煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に、この世の生活を変える。
 それは間違いなく心の平安をもたらすだろうが、真の幸福をもたらすかと言えば、それはまた別の、もっと大きな問題では あるが・・・
 
◇◇◇ 
 後半は、ほとんどそのまま引いた。さすがに哲学者が哲学用語を用いて簡潔に説明すると説得力がある。
 そうか、想念がもつ志向性、それで心(こころ)が客観的事実と混同し、連鎖的に暴走する。 サティをいれることでその連鎖を想起に断ち切るのだ。
 
 ネットで検索する 「志向性」
 志向:意識が一定の対象に向かうこと。考えや気持ちがある方向を目指すこと。指向。
 志向性:《(ドイツ)Intentionalitat》現象学で、すべての意識は常にある何ものかについての意識であるという、 意識の特性をいう。指向性。
 
 志向性(Intentionality)とは、人間の意識が外部の世界の何か(志向対象)に対して注意を向ける能力、 または心的状態を関連付ける能力である。ブレンターノやフッサールの現象学においては、志向性とは意識のあらゆる活動に伴う ものであり、すなわち心的現象の本質的な特性であって、心的現象は志向性によって物質的現象から区別できるとされた。
 たとえば「愛」とは何ものかを愛することであり、「欲求」とは何ものかを欲っすることであり、「嫌悪」とは何ものかを 嫌うことである。心的現象は常に志向対象をもつという説は「ブレンターノ・テーゼ」とも呼ばれる。
 また志向的状態は、思考対象とそのアスペクト形態(aspectual shape)をもっている。 アスペクト(aspect)とは人が認知をする際の、対象となる事物の現れ方のことである。 例えば金星は、ある時は「宵の明星」という現れ方をし、ある時は「明けの明星」という現れ方をする。
 
 例えば「クラスメートを意識する」というのは、気持ちがクラスメートに向かっているということです。 意識には必ず対象があります。例文だとクラスメートが意識の対象です。 図式化すれば、意識→対象となります。
 矢印が必ずある(方向性がある)ことが特徴です。
 わざと難しい言葉を使っているのではなく、言葉を厳密に使っているようです。
 
 
 2013 2 10 (Sun)