「このあたりでは皆狂っているのさ」(チェシャ猫 ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」)

チェシャ猫君のこの言明文について、すこし考えてみよう。

もしチェシャ猫君が狂っているとしたら、この文は狂っているがゆえに、
内容は正しくないことになる。

補足すれば、狂っているものが語ることは、狂った内容であるという前提があるのだが。

この前提を受け入れれば、「このあたりでは皆狂っている」という内容自体、狂っている
のだから、皆が狂っているわけではないことになる。

ところが、皆が狂っていないとなると、チェシャ猫も狂っていないので、チェシャ猫の発言は
嘘になってしまう。

さらに、狂ったことを語るものは狂っているという前提を立てると、
チェシャ殿はやはり狂っていることになってしまう。

皆が狂っていないか、または、このあたり以外のところでも狂ったものがいることか。

まあ、そもそもアリスの迷い込んだ世界は、狂っているとも言えるのだけれど。



レイモンド・スマリヤンの論理パズルの本を開けば、
こうしたパラドックスがたくさん溢れ出てくる。

「What is the name of this book?」(「この本の名は?」TBS出版会)
に、精神病院を退院するためのテストについて言及している(まあ、ジョークなのだが)

それは「あなたは自分がナポレオンだと思うか?」という問いに対して「いいえ」と
答えるもので、嘘発見器が反応しなければ無事退院ということらしい。


知識の論理学の古代の例では、荘子の本に出ている。

「荘子 外編 秋水篇」(岩波 金谷治訳注)
濠で魚が泳いでいる姿をみて、荘子があれが魚の楽しみだと恵子(ケイシ)に語ると、
恵子は荘子に、どうして魚の気持ちが分かるのかという。

魚でもない荘子に魚の気持ちが分からないというのが恵子の論点だ。

しかし、荘子は切り返して、恵子自身が、荘子の知識の程度を知って、
質問しているではないか、という。

恵子は、荘子が魚の気持ちを知らないことを知っていることになる。
しかし、それは、荘子が魚の気持ちを知ることができないことを
恵子は知っていることになる。

だが、翻すと、恵子は、荘子が魚の気持ちを知る事ができることを
知らないことを、荘子は知っていることになる。


これを、ちょっと幅を広げてみれば、社会というもの、
他人の知識に依存していることが多い。

それが信頼、あるいは信念になるのだが。

たとえば、医者は医学の知識を持っている事を我々は知っている。
しかし、それは信念ともいえる。
もしかすると、医者がすべて、平準化された医学知識を持っている
わけではないかもしれないが、持っているかもしれない。

世の中、試験が存在する理由は、この知識の有無を知る事が
簡単にはできないからなのだろう。

世のドライバーは、交通ルールを知っていることを知っているのは、
ライセンスを所有しているという担保に基づいているからだ。

だが、果たして、ほんとうなのか?

ではまた、つれづれなるままに。