ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインは
「論理哲学論考」を書いた。
書いたというより、戦争中に従軍しているときに
リュックサックにメモを書き溜めたものを
編集して、番号を付けて、整理して本にしただけらしい。
論理学、当時は記号論理学という数学のひとつの分野に
関する哲学的なコメントを、思いつくままにメモしていたらしい。
そもそもは飛行機のエンジニアを目指しているうちに
数学の基礎に疑問をもち、フレーゲという数学者に
相談したところ、イギリスにバートランド・ラッセルが
いるので、そっちにいったほうがいいといわれ、
大陸(フレーゲはドイツにいた)からイギリスへ渡ったらしい。
真偽のほどはわからないが、(これから書く事はほんとうか
どうかわからないので本気にしないでほしいのだが)
フレーゲはいわゆる右翼、国粋主義者で、
ウィトゲンシュタインはオーストリア人で
しかもユダヤ系(名前からしてそうだが)なので、
自分の弟子にしたくなくて、
民主的で心の広いラッセルのもとへと
追い払ったのではないかと、思う。(まあ、真偽のほどは
わからないけれども。ナチスが台頭していた頃だし、
ドイツの論理学者ゲンチェンも右翼で、戦後、獄死した
らしい。有名なゲーデルとかタルスキはユダヤ系なので、
さっさとアメリカへ亡命したのだった)
ウィトゲンシュタインは相当の変わり者だったと
晩年のラッセルはいろいろなところに書いているが
どうもオーストリア独特の文化とユダヤ系特有の文化
が、イギリスのビクトリア朝文化で育った貴族のラッセル
には合わなかっただけなのかどうかは不明だ。
ただ、ウィトゲンシュタインに会った、
ほとんどの人々は、ウィトゲンシュタインの
奇癖や発言について証言しているようだ。
はげしく起こりだす癖は
ベートーベン以上に激しかったらしいが。
火かき棒(暖炉にたてかけてある薪をかきわける棒)
を突きつけれたカール・ポパーの証言もあるほどだ。
ひとつの学派(分析哲学派というらしい)ができるほど
「論理哲学論考」の影響は大きかったらしい。
ラッセルも「私の哲学の発展」という自伝的な本の中で
衝撃について一章を割いている。
そのウィトゲンシュタインも、
オランダの数学者ブラウアーの講演を聴いて、
自分の哲学の方向を大きく展開させたという
神話のような話がある。
このブログでも紹介してゆくが、
ブラウアーは直観主義という論理学の体系を
作らしめた(自分では作っていないので)影響を
持っている。
排中律「Aが正しいかAが正しくないかのどちらかだ」
という自明な法則を認められない事象が数学にはある
ということを主張したのが、ブラウアーだった。
ウィトゲンシュタインがブラウアーの講演から
何を思って、「論理哲学論考」の考えを変える
思想へと向かったのか、何も具体的には分からず
謎のままなのだが。
ソウル・クリプキという哲学者がウィトゲンシュタイン
のいわゆる後期と呼ぶ著作から、
様相論理学の哲学的問題と関連させて引用を
多く使っているのだが。
クリプキ自身も直観主義論理学についての
論考も書いている。
直観主義とウィトゲンシュタインの関連については
謎が多いのだが、謎をもっと分かりやすく解説して、
シャーロック・ホームズとはゆかないまでも
刑事コロンボのように
コツコツと解いてみようか
というのが、今後のプログラムといったところで、
では次回へと。
「論理哲学論考」を書いた。
書いたというより、戦争中に従軍しているときに
リュックサックにメモを書き溜めたものを
編集して、番号を付けて、整理して本にしただけらしい。
論理学、当時は記号論理学という数学のひとつの分野に
関する哲学的なコメントを、思いつくままにメモしていたらしい。
そもそもは飛行機のエンジニアを目指しているうちに
数学の基礎に疑問をもち、フレーゲという数学者に
相談したところ、イギリスにバートランド・ラッセルが
いるので、そっちにいったほうがいいといわれ、
大陸(フレーゲはドイツにいた)からイギリスへ渡ったらしい。
真偽のほどはわからないが、(これから書く事はほんとうか
どうかわからないので本気にしないでほしいのだが)
フレーゲはいわゆる右翼、国粋主義者で、
ウィトゲンシュタインはオーストリア人で
しかもユダヤ系(名前からしてそうだが)なので、
自分の弟子にしたくなくて、
民主的で心の広いラッセルのもとへと
追い払ったのではないかと、思う。(まあ、真偽のほどは
わからないけれども。ナチスが台頭していた頃だし、
ドイツの論理学者ゲンチェンも右翼で、戦後、獄死した
らしい。有名なゲーデルとかタルスキはユダヤ系なので、
さっさとアメリカへ亡命したのだった)
ウィトゲンシュタインは相当の変わり者だったと
晩年のラッセルはいろいろなところに書いているが
どうもオーストリア独特の文化とユダヤ系特有の文化
が、イギリスのビクトリア朝文化で育った貴族のラッセル
には合わなかっただけなのかどうかは不明だ。
ただ、ウィトゲンシュタインに会った、
ほとんどの人々は、ウィトゲンシュタインの
奇癖や発言について証言しているようだ。
はげしく起こりだす癖は
ベートーベン以上に激しかったらしいが。
火かき棒(暖炉にたてかけてある薪をかきわける棒)
を突きつけれたカール・ポパーの証言もあるほどだ。
ひとつの学派(分析哲学派というらしい)ができるほど
「論理哲学論考」の影響は大きかったらしい。
ラッセルも「私の哲学の発展」という自伝的な本の中で
衝撃について一章を割いている。
そのウィトゲンシュタインも、
オランダの数学者ブラウアーの講演を聴いて、
自分の哲学の方向を大きく展開させたという
神話のような話がある。
このブログでも紹介してゆくが、
ブラウアーは直観主義という論理学の体系を
作らしめた(自分では作っていないので)影響を
持っている。
排中律「Aが正しいかAが正しくないかのどちらかだ」
という自明な法則を認められない事象が数学にはある
ということを主張したのが、ブラウアーだった。
ウィトゲンシュタインがブラウアーの講演から
何を思って、「論理哲学論考」の考えを変える
思想へと向かったのか、何も具体的には分からず
謎のままなのだが。
ソウル・クリプキという哲学者がウィトゲンシュタイン
のいわゆる後期と呼ぶ著作から、
様相論理学の哲学的問題と関連させて引用を
多く使っているのだが。
クリプキ自身も直観主義論理学についての
論考も書いている。
直観主義とウィトゲンシュタインの関連については
謎が多いのだが、謎をもっと分かりやすく解説して、
シャーロック・ホームズとはゆかないまでも
刑事コロンボのように
コツコツと解いてみようか
というのが、今後のプログラムといったところで、
では次回へと。