ものを書くとき、下書きなしでパソコンで、つまり紙に手で書かないで、エディットしながら書いてゆくことが多いが、これは小説を書く場合にはどうか。メールとかツイートはそうだろう。

チェシャ猫「それよりも、もっとブランデーはないのかい?」

チェシャ猫殿には、少量のブランデーをミルク皿に。

ブログはどうか。

あるいは小説の場合は。

最近、分かってきたことは、巷にあふれる、文書の書き方とか論文、レポートの書き方の本をつまみ読み(つまみ食いの醍醐味についてはいつか別の機会にでも)すると、小説を書く行為とは、およそ真逆なことが分かった。

メモの効用というのがある。
またまた最近、マインドマップでメモをとるようにしている。
かの南方熊楠のメモが、(毛筆で書く時代に)まさにマインドマップになっているのを、何かの本に載っていた写真でみた。

マインドマップとマンダラの関係について、そのうち書こうと思っている。

マンダラ的なのが、マインドマップなのではなかろうか。

南方熊楠先生は、随筆、いまでいうエッセイストなので、マインドマップなんだろう。

では、小説にマインドマップは有効か。

おそらく、無効だという結論が、ここ数日の体験からわかった。

何かを調べる、たとえば、歴史と地理について調べるときには、マインドマップが有効だということが分かった.

インターネットや本の情報というのは、順番に並んでいるので、脳に、つまりアナログに入るには、一度、マンダラ状に、アナログ化したほうが、分かりやすい。

あれはどうなっていたっけ、などと後から参照するのによい。

だから、登場人物の性格とか、人間関係についてはマインドマップ化しておくとよいのだ。つまり参照して探すときに早い。

辞書みたいに、順番になっているものは、コンピュータによる検索のほうが早いので、できれば電子辞書とかCDーROMのほうがよいと思う。

さて、肝心の小説の場合だが。
結論的には、パソコンにせよ、手書きにせよ、とにかく、書くしかない。文章を積み重ねて、書いたものを読みながら、進める以外に、方法はなさそうだ。
書きながら考える。

ただ、手書きのほうがいいと思う点は、ダイレクトに文字が書けることだろう。パソコンやモバイルの場合、変換するために、何かのキーを押す必要があり、操作が入る分、脳の思考が中断される。

なので、手書きで下書き、パソコンでエディットする。これがわたくしの場合にはよいという結論だ。

チェシャ猫「雪が 降るたびに、カフカの「城」を思い出すのではなかったかね」
わたくし「まあ、そうだね。雪道で立ち往生するとかね」
チェシャ猫「雪国で生活してたら、カフカを何度も読み返しただろう」

そういえば、プルーストはまだ、一巻めの途中だったが。(ちくま文庫版)
「失われたときを求めて」に雪の場面は出てくるのだろうか。

チェシャ猫「そういった未知のことがあるから、人生はまだまだ捨てたもんじゃないさ」