第五回

第一回

前回

 バーゼルに着いたのは、夜の八時を廻った頃だった。客車を降りると、ノワールは「また近いうちに会うかもな。じゃあなあ」と言って、尻尾を立て、列車の下へ消えていった。ヨハネスはしらばらく佇み、ノワールの去っていった列車の下や、列車の先頭車両の方向、一等車の方向を見やった。列車に沿って、乗客の群れや赤帽のポーターが往来していた。その中に、謎の婦人と<ねずみ>の姿があるのか、判別はつかなかった。乗客の群れの最後部を歩き、駅の出口を見たが、謎の婦人も<ねずみ>も、それらしき人間は見当たらなかった。
 ライン川のほとりにある宿へチェックインして、辻馬車を雇い、オーヴァーベック教授の待つライン川の向こう側、フランスに近い領域へ向かった。並木道が色づきはじめている郊外の住宅の並びの一角で馬車を降りた。
 玄関では、オーヴァーベック夫人が迎えにでてくれた。来月には、姪っ子の結婚式があり、フランクフルトへ行くのだと、嬉しそうに語ってくれた。近況をお互いに伝え合いながら、居間へと通された。居間のひとり掛けソファーで、オーヴァーベック教授が眼鏡を掛けて何かを読んでいた。落ち着いた雰囲気の部屋で、一年振りの邂逅を喜びながら、握手の手を緩めると、ソファーへ座り、食事はどうしたかと聞かれ、宿で食事を予約したと言うと、教授は夫人にお茶とお菓子の用意を頼んだ。
 一年前に会ったときより、オーヴァーベック教授は歳をとった感じがした。頭がだいぶ白くなり、目の周囲に皺が増えた。夫人がお茶とくるみを載せて焼いたケーキを出して、にこやかな表情で居間から去っていった。やがて、階段を昇る足音が聞こえた頃を見計らって、二階のほうを指差しながら、老教授はひっそりした声で言った。
「アレはしっかり者でね。フリードリヒ(ニーチェ)の遺稿に、わたしがアレの尻に敷かれてることが書いてあるほどさ。ガスト君のことなんか、くそみそだし、驚くべきことに、フリードリヒは、母親と妹のことについては、何行にも渡って、非難ごうごうさ。家族とうまく心が通ってなかったのだね」
 ヨハネスは二階のほうへ視線を向けながら、「はあ」と間抜けな返事をひとつしてから、車中での出来事を教授に話した。
 話を聞き終えると教授はソファーから立ち上げり、拳を振り上げながら、キャンパス内でアジ演説をしているフィヒテのように、熱心に語り始めたのだ。
「やっぱりだ。エリーザベトだよ。フリードリヒの妹のエリーザベトだよ。香水のきつい匂いがしただろう。黒のベールとポアゾンの香りだ。間違いない、エリーザベトだ。もうわたしとガスト君の計画が知れ渡っていたとはな。虫も殺さぬような顔をしているが、わたしは、夫もフリードリヒも、あの女に殺されたのだと思っているほどだ。いや、事実の真偽はどうでもいい、それほどわたしはあの女が、フリードリヒの妹が怖いのだ」
 教授の声がだんだんと大きくなり、拳を振り上げては語り続けた。
「ひどい話さ。トリノからフリードリヒを連れて来たわたしに、自宅にひきとってからは、面会させなかったんだ。遺稿の整理から、ついにわたしもガスト君も閉め出し、フリードリヒの葬儀にも参列させてはもらえなかった。生前、何も関係のなかった者達だけの壮大な葬儀をやったんだ」
 いつの間にか涙を浮かべながら、声と腕の振り上げが激しくなるオーヴァーベック教授を見て、ヨハネスは親指を二階の方へ指し示し、<アレ>である夫人が降りてこないように、教授に合図を送った。教授はヨハネスの合図に気づくと、ソファーへ戻り、紅茶を一口啜ると、今度は小さな声で話を続けた。
「そんなことがここへ来る車中であったのか、いや、ちょうど良いと言えなくもないが、実は君に頼みたいことが、フリードリヒの遺稿に関連しているのだ。わたしがフリードリヒをトリノからここ、バーゼルへ連れて帰ってきたときに、手渡された十ページほどの原稿がある。残念なことに、フリードリヒの書いた文字を判読できるのは、ガスト君だけなんだ。しかも、フリードリヒの入院手続きやら何やらで、原稿のことをしばらく、実はフリードリヒの葬儀のあった日まで忘れていたんだよ。それ以前に、エリーザベトがパラグアイからこっちへ戻ってきて以来、フリードリヒからの手紙をよこせという手紙が毎月のように来ていた。まるで借金取りだな」再び、教授の声が大きくなったので、ヨハネスは二階のほうへ親指を指し示した。教授は我に返ると、小声に戻って続けた。
「うん、それでそのトリノの遺稿ーーガスト君とわたしはそう呼ぶことにしたーーを思い出し、最初の三ページほどを写真に撮って、ローマにいるガスト君に送ったんだ。ガスト君から返信が来て、これはエリーザベトの野望、つまりフリードリヒの思想と著作を捏造しようとしている野望を、瓦解させるものではないかと言うのだ。わたしも、ほとんど読めない文字で書きなぐられたメモのような草稿を二、三度読んでみたが、やはりよく分からなかった。ところどころに、ツァラトゥストラという文字については、段々と慣れて来てわかったがね」紅茶を飲んでから、一息つき、教授は続けた。
「そのガスト君からの返信の最後に、エリーザベトは今、いろいろな手を使って、遺稿をかき集めているらしいこと、それと、今手元にある遺稿や手紙類もどこか安全な場所へ保管して、時期をみて、ガスト君が判読し、清書したいという。そこで、チューリッヒにある甥っ子の働く銀行の貸金庫へ保管したんだ。そして、それを、今、モロッコにいるガスト君のところまで届けてもらいたいのだ」
 ようやくオーヴァーベック教授の用件の全貌とその危険度(車中の体験から知ったリスク)がヨハネスにも分かった。エリーザベトの野望を瓦解させる前に自分が瓦解させられるのではと、早速、Neinの言葉が思い浮かんだ。フランス語を使って、「non」と鼻音に
かけて軽く断るのもいい、などとヨハネスは考えた。
「つまりは、チューリッヒからモロッコまで、ニーチェの遺稿を運んで欲しいというわけですね」とヨハネスはまたもや間抜けな確認と総括をしてみた。
 オーヴァーベック教授は嬉しそうな色を目に浮かべた。
「おお!やってくれるかね」
「いえ、その、あの」(nonもNeinも言えないなぁ)
「うん?」
「そう、それだ、なぜこのぼくに?」
「聖職者ならば、めざといエリーザベトを出し抜けると思ってね」
「でも、すでにバレバレでしたよ」
「そのほうがかえってよいのだ。まさか、すでにバレた人間がまた遂行するとは思わんだろう」
「でもですね」
「乗りかかった船ということもあるじゃないか。昔、ギリシア語やラテン語で単位を落としそうな君を鍛えてやったよしみもあるじゃないか。聖職者たるべきもの、人を助けなくては、かのルターのように、ね」
「でもですね、何日も牧師館を空ける訳には」
「わたしからもミュンヘンに手紙をだしておくよ。ドイツだけでなく、世界の歴史を救う敬虔なる職務遂行の為にということでね。きっと牧師長も納得してくれるだろう。いや、命令するかもしれないぞ。いや間違いなく、プロテスタント教会の賛同一致は間違いないな」だんだんとこじつけが昂じている教授に、最後の反論を試みた。
「でもですね、ニーチェは<反キリスト>じゃなかったですか」
「あれはエリーザベトが出版したのだと弁護しておくよ、君のためにも」
「でもですね、危険があるんじゃないですか。だって、車中でナイフを持った、歯の出た<ねずみ>という危険な男もいるんですから」
「なあに、大丈夫、神様のご加護がお守りしてくれるよ」
「でもですね、イヤー.......」
 結局、いつの間にか、二階から降りてきていた夫人まで、満面の笑みをたたえ、夫とともに、神様のご加護がありますように、と言って、玄関で見送られてしまったのだった。
 
 宿に戻ったヨハネスは、途方に暮れていた。教授の頼みなど無視して、明日はフリーダのいる施設に行き、フリーダの頼みごとを済ませたら、ミュンヘンへ帰ろう。夕べのお祈りをしながら、宿の質素な食事と赤ワインを楽しんで、今夜のところは寝ようと決心した。心やすらかなる眠りこそ大事だ。でも、エリーザベト達もここ、バーゼルにいたんだっけと深夜に思い出し、ドアの鍵を確認し、机をドアの前に移動し、それからベッドに入って、アフリカ大陸の巨大な灼熱のイマージュにうなされる夜を過ごすのだった。