第六回

第一回
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午後にはいつも、ハンナは本を読むことにしていた。ルイス=キャロルの「不思議の国のアリス」のフランス語訳を読んでいた。一年前、フリーダの部屋の書棚にあるのを見つけ、赤い表紙に淡いブルーの文字でタイトルの、今読んでいるこの本がずっと気になっていた。そして、フリーダからドイツ語の個人レッスンを受けてから、二週間後に、フランス語を忘れないためにも、そう、ご両親から教わったあなたの形見でもある宝石のような母国語も忘れてはいけないと、何かフランス語の本を読み続けたほうがいいと言われた。フリーダは、わたしの部屋の書棚に何か気に入った本があれば、貸してあげると言われたときに、迷わず「不思議の国のアリス」を選んだ。
「まあ、わたしも子供の頃好きになった本。きっと気に入るわよ」フリーダは微笑みながら喜んでくれた。はにかみながら、ハンナはお辞儀をして、膝を折り、心からのお礼の気持ちを伝えた。
 一年近くになるが、お昼が終わった午後には、狭いけれど、静かで、窓辺に木漏れ日のある、南向きのこの部屋、自分に与えられたこの部屋で、アリスの本を読むのが好きだった。公爵夫人、トランプの兵士と女王、ぼうし屋のマッドなお茶会、ウサギ、チェシャ猫など、奇妙な登場人物(?)たちの次々に出てくる、奇妙なお話が気に入った。
 最初の三ヶ月は、フリーダのフランス語辞書を借りて、知らない単語を調べたり、フリーダに教えてもらいながら、なんとか最後まで読み終えた。色鉛筆で書き込んだ知らない単語で単語帳がいっぱいになった。次の一ヶ月は、最初のときより読み終えるのも早くなった。そして、三回目に読み出したら、物語の流れが淀みなく、流れていった。奇妙な登場人物達のでてくる夢まで見るようになった。
 その頃には、以前ピアノを習っていたことをフリーダに筆談で伝え、夕食後には施設の他の子供達がハンナの演奏で合唱するようになり、ハンナと他の子供達の距離も少しは縮んだ気持ちになった。けれども、音声による言葉の壁が、ハンナを他の子供や大人とを隔だてているという現実は変わらなかった。
 そうした状況と、ハンナの置かれた冷酷な現実を、いっときでも解放してくれるのが、この午後の読書の時間なのだった。もう、何度も読んでいるアリスの物語。ユーモア、フランス流のエスプリとは違い、イギリス流の独特のユーモアが、ハンナの心を和らげてくれるのだ。それと夕食後のピアノの演奏。ここに来てから、合唱曲を十数曲も覚えた。ピアノを弾く間、両親と過ごした日々、日曜日の庭で、クロード伯父さんとパパとママンと過ごした昼食のひとときを、思い出した。しかも、楽しいイマージュとして、ハンナの心とピアノの曲が解けあうように流れてゆくのだ。子供達が歌うソプラノの声が、心地よいイマージュを呼び醒してくれたのだろうか。
 あれから、十数年後に、懐かしくハンナは思い出すのだ。しかも、その後のそれこそ、アリスの世界よりも奇妙なあの一ヶ月近くの様々な出来事のことも。その始まりが、ちょうど読書、アリスを読んでいた午後の時間だった。
 そう、ちょうど、ハンナはチェシャ猫とアリスの会話の場面で、チェシャ猫が完全に消えた場面を読み終え、伸びをひとつして、窓辺のほうを見ていたのだった。
 木漏れ日が窓ガラスをなでていて、風が葉影を左右に揺らしていた。窓のすぐそばまで、その大きな樹が立っていた。葉影は大きくなったり、小さくなったりしながら、様々な模様を作り出していた。風のそよぎが時々、強くなったりすると、葉影の生み出す幾何学模様が大きくなる。しばらく大きなままだと思っていたら、エメラルド色の双眸が現れた。
 気がつくと、黒猫が窓辺に座って、ハンナのほうを見ていたのだった。そう、あのときの黒猫の現れ方は、後になって思い出したときでも、前触れもなく、突然の出来事だった。植物の芽が静かに現れたような感じといえるのだろうか。
 ハンナは黒猫に微笑みかけてから、本に戻って、読み始めようとした。
「チェシャ猫だね?」
「(え?)」ハンナは顔を上げて、部屋の中や窓辺を見回した。しかし、人影はなかった。気のせいと思い、再び本へ視線を戻した。確かに、そのとき開いていた本の挿絵には、顔だけのチェシャ猫の挿絵が載っていた。
「それはアリスの本だろ?」
「(え?)」ハンナは顔を上げて、さっきと同じように廻りを見回してみたが、やはり誰もいない。
「何をキョロキョロしてるんだい?」
「(え?)」
黒猫は、窓辺から飛び降りて、ベッドの上へ飛び上がった。
「ほら、俺だよ。今、君のベッドの上だよ」
「(え?猫?)」
「ま、世間では猫って呼ばれているね。でもノワールっていうフランス語の名前を、ちゃんと持っているんだぜ」
「(あなた?猫?ノワール?」
「そう、ノワール。君は声が出ないようだね。でも大丈夫、俺は心の声ってやつを聞いているんでね。人間のような発音ができない点では、君と俺は似ているな。俺も、人語を音声で表現するには、いささか、口や声帯の構造が違うんでね。でも君の場合は、ま、いいか」
「(何処から来たの?)
「俺の身元調査かい。官憲みたいだね。その前に君の名前を教えてくれてもいいんじゃないかい。まあ、社交上の礼儀としてね」
ハンナはちょっと、自分が恥ずかしく感じたが、でも猫だけどとも思ったのだ。
「(ごめんなさい。わたしはハンナ)」
「ハンナか。いい名前だね。俺は、実はね、何処から来たのか、よくわからないのさ。すでに、存在が先にあったのだよ。なんて哲学しててもいいけれど、ほんとうのことを言うと、心の、そう自分の心の声が、あっちへゆけ、こっちへゆけって、俺をうごかしているだけで、他の猫ともちょっと違うようだね。はっきりいって、わたくしという現象は、よく分からないってことだけは、確かだな。おっと長話になっちまったね」
「(またお話できるかな?この一年、だれともお話できなかったの。話し方を忘れちゃうんじゃないかって、心配してたんだよ)」
「大丈夫。一年分のお話できなかった鬱憤は別の機会にということにしておこうや。また会えるよ、たぶん、いやかならずかな。またまた心の声ってやつが、君ともうひとり、ちょっとどころか、だいぶ頼りないやつと、三人で、どこか別の場所で会いそうだ。心の声がそういってるんだよ。ちょっと気障だが、じゃあな、また」
ノワールはベッドから飛び降りて、窓辺へ飛び上がった。
「(ありがとう。お話のしかた思い出したみたいだよ。じゃあ、ノワール、今度会うまで)」
ハンナは椅子から立ち上げり、ノワールに手を振った。
 ノワールはハンナのほうを振り返ってから、一声、みゃうと鳴くと、窓のそばの樹木の幹から分かれている太い枝の一方へ飛び乗り、葉影に消えていった。
 ハンナはしばらく、ノワールの消えた葉影を見つめていた。風が吹き、木漏れ日がハンナの頬をなでていた。ハンナは、木漏れ日がくすぐったい気がして、そして今起きた出来事が、とても自然なことだったので、ふとおかしくなり、しばらく佇み、午後の木漏れ日の中で、黒い猫とチェシャ猫が樹木を螺旋状に飛び移ってゆくイマージュを錯覚しそうなほどだった。
「(こんなこってあるのかな)」
ハンナは空を見上げて、九月の澄んだ空気を吸い込んだ。

(次回へ)