第七回
第一回
前回
第一回
前回
「モロッコ!?」
オーヴァーベック教授のところで聞いた話の所為で、夕べうなされた原因である、その国を名を、立ち上がって口にしている自分に、ヨハネスは気づき、慌てて「いや、なにその、ああモロッコね」と言いながら椅子に座り直した。
「どうしたの、ヨハネス。顔色悪いわよ。大丈夫」フリーダは瞬きしながら、少し、驚いたようだ。
ヨハネスは、フリーダに話の続きを促し、お茶を啜って、動揺を鎮めた。ペパーミントのお茶は香りがよく、落ち着きを取り戻した。香りを吸い込み、夕べは、アフリカの夢を見て、まだ、一度も足を踏み入れたことのない暗黒大陸の夢にうなされて深夜に目覚め、鞄に忍ばせていたブランデーの小瓶を空にしてしまったのだった。アルコール中毒の牧師になってしまったのかと心配にもなっている今日この頃。
フリーダは話を終えると、杖をつきながら、部屋の外に出て行った。もうすぐ、夕べのお祈りの時間だという。
ヨハネスはしばらく考えごとをしたいので、中庭に出た。
中庭には花壇があり、秋の花が咲いている。黄色やピンクの花々が咲いているが、秋の花々の形や色は涼やかなほど、さっぱりした風情を出している。
フリーダからの頼みを聞くとなると、モロッコへ行かねばならない。しかも、さっき会ったハンナという可愛らしい女の子を連れて、エリーザベトという妖女、まるでゴーゴンみたいな危険な妖怪から、危険なめにあわされるかもしれないというリスクを伴って。金色のウェーブがかった長い髪の、寂しげな顔の少女は、今は身内がひとりしかいないという。
それにしても、ハンナとは初めて会ったのだが、何か、ヨハネスが来る事を事前に知っていたようなあの妙な感じというのか、ハンナの表情は、不思議だった。まるで、<ああ、このひと>というような、なんて言うのだろうか、まるでヨハネスを値踏みするような、まだ十歳になったばかりだというのに、何か、妙な感じがしたのは、気のせいか?
まあ、それはいい。
それにしても、この偶然は何なのだろう。オーヴァーベック教授とフリーダからの頼みごとというのが、両方ともモロッコに関わるとは。最近、神について、そして聖職というものについて、疑念を抱きはじめているヨハネスにとって、今回の偶然も、皮肉な偶然としか、感じてこないのだ。
そもそもは、ヨハネスの祖父、パウルの反骨魂から始まるのだ。
ミュンヘンなどという、プロテスタントの、しかも牧師にとって、カトリック信者の真っ只中という、辺境の地で、布教活動を開始したのだから。プロテスタント協会でも最初は、辞めた方がええんでないかい。我らプロテスタントは、ローマ帝国から見たら、蟻みたいなものよ。などと協会の長老達は、卑下とも取れる発言で、祖父パウロの反骨魂の火に油を注いだのさ。後年、ヨハネスは父ペーターから聞いた。お前のじいちゃんの所為で、ぼくちゃんの人生は大変な目にあったのだよ。ぼくちゃんは、お前のじいちゃんとは正反対の性格だろう、だから、肩身の狭い事。相手はローマカトリックじゃけんね。知ってるだろう。ミュンヘンの中心に、いつも蟻みたいなぼくらプロテスタントを見下ろす、ツインタワーの、聖母マリア教会、フラウエン教会だよ。国王達の代々の墓守りなんよ、あすこは。しかも、悪魔の足跡まであってさ、観光ツアーまでできちゃうんだよ。それにひきかえ、地味ぃーーな、ぼくらプロテスタントの聖マテウス教会はどうだい。天使の爪のアカすらないよ。カトリックはさ、マスターベーション禁止だけど、プロテスタントは問題ないけどね。それだけが取り柄さ。だから、お前のママみたいな別嬪をもらうことが出来たんよ。よく鍛えたからね。それだけは、お前のじいちゃんにぼくちゃん、感謝してるのよ。
結局のところ、ヨハネスは父から聞いた、悪魔の足跡がどんなものか、一度だけ、観光しにいったことがある。ステンドグラスやゴシック式建築を見た途端、自分が何処に迷いこんだのかわからないほどだった。悪魔の足跡は、石の上にあり、人間の足跡と変わらないので、がっかりした。たぶん、話だけのことなのだろう。ローマカトリックでは、昔から魔女だの、悪魔だのを、論じて来たしなあ。それに比べれば、プロテスタントのほうが、醒めているのかな。ポストモダンなのか?
やがて、ヨハネスは神の存在について、なんとなく、うやむや、うやむや、真剣に考える?ことや信仰するということはなくなってしまった。これも近代の思想なのだろうか。
今では、両親のいるミュンヘンの西側郊外から離れた東側の教区の牧師館で、細々と副牧師としての務めを果たしている。だが、年々、説教の内容も浅くなり、ネタも尽きてきていた。所詮、ミュンヘンでは、プロテスタントの信者など増えるあてもなく、プロシア帝国主義から次はどうなることか。所詮、カトリックとプロテスタントの統一という国家主義的な政策なんかで、人間の心など変わる訳もない。
今の心の慰めは、日曜のオルガン演奏とクリスマス時期にフリーダのいるバーゼルの施設に訪れることくらいだ。この先、こんな日々がいつまで続くのかと思っていたのだった。
モロッコ行きは、ある意味では今のヨハネスにとって、転機のきっかけになるかもしれない。
ただ、唯一そしてそれがすべての悩みの種なのだが、フリードリヒ・ニーチェの妹、エリーザベトの存在だ。どのようにして、ハンナという少女を、危険の及ばないように、モロッコまで送り届けるか。そして、もちろん、エリーザベトの兄である、かのニーチェの遺稿を無事、ペーター・ガストに届けて、世に公にするかだ。
しかし、オーヴァーベック教授は、なぜ、遺稿を郵送でガストへ送らないのか。それは、ガストはすでに監視下にあり、郵便物でも届けば、すぐに部屋が荒らされ、遺稿が奪われるからだろう。オーヴァーベック教授からの郵便物以外も、とにかく、何かが届く度に、ガストの部屋が荒らされているという話だった。
何かよい方法はないものか。敵の裏をかく方法が。
ヨハネスは、花壇の周囲をぐるぐる廻りながら、考えごとをしていた。そのとき、花壇の花々の群生の影から、一匹の黒猫が現れた。黒猫は地面に座りこみ、ヨハネスの顔を見上げている。ヨハネスも立ち止まり、黒猫を見つめた。エメラルド色の双眸が光った。そろそろ、夕暮れだった。猫が一声鳴いた。
ノワール?
施設の隣の教会の鐘が鳴り始めた。その瞬間、ヨハネスの脳裏に、敵をだし抜くためのあるプランと方法が思い浮かんだのだ。
「よう、いい顔してるじゃないか」
「ノワール。そうなんだ、とてもよい考えが浮かんだところなんだ!」
「夕食の時間だな。ああ、腹が減ったよ」
「よし、ぼくの泊まっている宿でごちそうしてやるよ。いい考えが浮かんだお祝いだ」
「お、景気がいいじゃないか」
ひとりと一匹は、施設を後にして、夕陽に輝くバーゼルの通りを歩きだした。
(次回へ)