第八回
第一回
前回
第一回
前回
昨晩は、ノワールと一緒に宿で祝杯を上げたが、いつ寝たのか、ヨハネスは覚えていなかった。祝杯とはいいながら、ヨハネスひとりが酒を飲み、ノワールはミルクに、ちょっぴりブランデーをたらしてやっただけ。ぐるぐる喉を鳴らしながら、ノワールもブランデーが効いたのか、ご機嫌になってきた。哲学談義に花を咲かせ、神について論じ合った。ノワールはニーチェを知っていると言っていた。ニーチェに会ったのかと聞いたら、
あれはニーチェではなかったが、ニーチェの作品に出てくるある人物?に会ったのだという。しばらく、供に旅をして、砂漠で別れたという。でも彼は、ニーチェの作品の中に出てくるという。ヨハネスは酔いの廻ってきた頭を振りながら、それはもしかしたら、ツァラトゥストラかもしれないな、と呟いてみた。
「ツァラトゥストラってどこへ行ったんだろう」ノワールは遠くを見るような目で呟いた。
ツァラトゥストラか。砂漠のイマージュと、夕陽に向かって影になるツァラトゥストラのイマージュが、ヨハネスの頭に拡がっていった......
目が覚めてみると、ノワールは部屋にはいなかった。いずれにしても、チューリッヒへ出かけて、思いついたあるアイディアを実行しなければならない。
フリーダには、ヨハネスの恩師からの頼みごとのために、二、三日チューリッヒで用事を澄ませて、バーゼルに戻り、それからハンナをモロッコまで送ることを告げた。フリーダはひどく喜び、脚が不自由な状態なのにもかかわらず、ヨロヨロしながらヨハネスに抱きついてきて、頬に接吻までした。驚いたヨハネスは、舞い上がり、何でもできるような気になってきた。
チューリッヒ駅に着いて、バーンホーフ通りを行き、ミュンスター橋を渡って、リマト川の東側に入ると、ヨハネスは落ち着いた気分になる。プロテスタントの大教会、グロスミュンスター教会があるせいだろう。礼拝堂に入って祈りを捧げ、その後司教に面会し、いくつかのお願いを快く受けてもらうと、オーヴァーベック教授の甥が働いているという銀行へと向かった。
甥から預かった鍵で、貸金庫を開けた。この銀行に来るまで、ヨハネスは何度も背後を振り返り、例の前歯の大きな<ねずみ>がいないか確かめながら、用心していたことは言うまでもなかった。だが、チューリッヒ駅で汽車を降りたときからも、<ねずみ>の姿らしき者は見当たらなかった。道ゆく間も、店の前などで立ち止まっては、尾行者がいないか、何度も確かめた。
貸金庫の中には、クリーム色に淡いグレーの罫線が印刷された紙に、殴り書きのような、判読不能な文字の原稿、フリードリヒ・ニーチェの遺稿が入っていた。全部で十二枚の用紙の、それぞれ中央寄りに、一行には、単語にして十語ほどのものや、三語ほどしかない、たぶん詩が書かれているのだろうと推測できる原稿だった。オーヴァーベック教授が言うように、確かに、判読が難しい箇所が多い。ニーチェって、文字が書けたんかいな、と疑わしいほどだ。ツァラトゥストラというつづりらしき箇所が、原稿をパラパラめくってみると、五つくらいあっただろうか。昨晩、ノワールの話してくれた話を思い出した。ツァラトゥストラと会ったなんて。大体、ヤツは、ノワールの存在自体が、不思議だ。もしかしたら、ぼくは、精神分裂症?見えないものが見えるのは、何か危ないのかもしれないな。このことは秘密にしておこう。フリーダにも言えないな。しばらく、秘密にしておかないと、病院へ入院させらることになりそうだ。ドレスデンのシュレーバー医院長じゃあるまいしねぇ。いや、しかし、<ねずみ>の手の甲をひっかいたのは、キャツだが。でも、<ねずみ>もキャツの声など聞いていないしな。たぶんだけれども。ぼくだけ、キャツの声を聞いたのだろう。いや、やはり誰にも内緒にしておこう。キャツは、しかし、モロッコまで一緒に行くのだろうか?
銀行の中で、封筒とペンを借りて、ある宛名と住所を書き、郵送料を払って、ニーチェの遺稿を封筒に入れて、窓口の係に預けた。しかも、住所についても、何気ない場所なので、エリーザベトには分からないだろうという確信があった。この計画がうまくゆけば、危険な目にあわずにすむ。しかも、銀行から外に出たときに襲撃されても、ヨハネスは遺稿そのものを身の廻りに持っていないので、安全なのだ。
そして送り先については、おそらく、彼らには想像すらできないかもしれない。またその後で、さらに、ヨハネスには届け先からまた安全なルートでガストの手元に渡すまでに、保険もつけれらる。つまり、写真に撮影してしまうという方法まで計画していた。クラックやブローニーというカメラ装置を使えば、十数枚の原稿も安全に保存できるではないか。心あたりにあたって、そう、モロッコへの道中で、写真に納め、それもまた別の場所に保管しておけばよい。
銀行から出て来たときに、銀行の前の通りには、<ねずみ>らしき人影はなく、安心した。ニーダードルフ通りへゆき、次の計画を実行することにした。
それは変装だ。
牧師館で暇なときは、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの活躍を読んでいた。イギリスのベーカー街での探偵ホームズの活躍が好きで、寝不足になるくらい読んでいたこともある。そういえば、ホームズの最後の事件、モリアティ教授との戦いとなる、最後の事件の舞台は、スイスだったではないか。滝壺へ、ホームズとモリアティが落ち込んでしまった。最後の事件を読んだとき、ヨハネスは元気がなくなり、子供のように塞ぎこんでいた。あこがれのホームズが死んだのだ。それから数日して、また、昔のホームズの活躍を読み直し、最後の事件のことを忘れようとした。著者へ手紙を書こうとまで思ったが、英語を書くのが下手なことに気づいた。ドイツ語で手紙を書いて、読んでくれるだろうか。大丈夫なはずだ、ホームズ自身もドイツ語を読む事ができるのだからな。などと、後で考えてみると訳の分からないことを考えていたものだと思った。
そのホームズの得意な技こそ、変装だった。今回、ハンナを連れて長旅に出るために、目立つ、聖職者の服装をやめて、一般市民の服装になることを思いついたのだ。なんにしろ、モロッコなど、イスラームとカトリックしかない地域で、牧師がまぎれ込んだら余計に目立つし、紛糾のもとだ。むしろ、ビジネスマンか芸術家かのどちらかのような服装で行ったほうがよい、と結論した。
モロッコまでのルートは、南仏を縦断し、マルセイユから船でアルジェリアに渡り、アルジェリアからモロッコへ、海岸線を横断することを計画していた。このルートについては、誰にも教えないつもりだ。フリーダにも、オーヴァーベック教授にも。そしてそれこそ、敵を欺くもうひとつの手段として、イベリア半島、スペインのマドリードからフリーダとオーヴァーベック教授へ手紙を転送することを思いついた。敵が手紙を盗んで、ヨハネス達を尾行するときに、イベリア半島からスペインを汽車で縦断し、ジブラルタル海峡を渡り、モロッコへと至るのだと、フリーダとオーヴァーベック教授にあらかじめ偽りのルートを伝えておく。まるで悪魔のような企みではあるまいか。アーメン。
ニーダードルフ通りを歩き、ブティックをめぐり、できるかぎり低価格で、麻の上着とパナマ帽、そしてカシミアのラクダ色ズボンを買った。また、眼鏡、度のない眼鏡を購入した。鬘もふたつ揃え、つけ髭まで用意した。ルイ・ビィトンのトランクへ衣装を詰め込んだ。ビィトンのトランクは高額だが、頑丈で、鍵も丈夫なのだ。その為に、エリーザベトも欺けるのだ。司教からお金を借りて、ビィトンのバッグを買ったのだ。
ニーチェの遺稿の代わりに、牧師のガウンと変装用のグッズとは驚きだろう。さんざん苦労をして、トランクを開けてみたら、中には..ということなのだから。
午後も終わり、陽が傾きかけていた。歩き疲れたので、少し休もうと、ヨハネスはバーに立寄り、ソーセージとビールを頼んだ。人通りは静かで、夕暮れの迫る街並は、これからの長い旅路の始まりすら予感させないほど、のどかだった。
(次回へ)