第十回
第一回
前回
第一回
前回
窓の外を眺めながら、ハンナは短くなった煙草の先端を、灰皿に代用している大きな貝殻にこすりつけ、火を消した。再び、タイプライターのキーを叩き始めた。
バーゼルから汽車でマルセイユに向かう間、ヨハネスは別の客車、ハンナ達の載っている一等客車とは別の、三等客車に乗っていた。
そして、ハンナとノワールの乗る客車には、もうひとりの牧師が同行したのだった。年配の牧師は、ヨハネスから事情を説明されていたのか、ハンナのことを気遣い、ノワールのような不思議な黒猫と、長い道中を無言で同行してくれた。もっとも、同行した牧師、ゴールドバッハ牧師には、ノワールの声が届かなかったのか、会話できる猫という概念はなく、哺乳類の同行者くらいにしか、過ぎなかったのかもしれない。
いったい、ノワールはなぜ、ハンナと会話をしてくれたのだろう。今でも、あの時には、ハンナにとって、ノワールとの会話は自然な出来事ではあったが、ノワールがハンナ以外の人間と会話していないのだ、ということは全く思考の範囲外のことだった。人間でさえ、誰とでも会話するわけでもない、という位の軽い感覚で、ハンナ以外の人間とは会話しないのだろう、くらいに考えていた。だから、ノワールと話をしている、それも心の声同士で、などということをーー幸い声がでないという状況を利用してーー誰にも筆談で伝えるつもりなど、なかった。
ノワールの起きている間ーー動き回ることができず、風景も退屈な車中では、ノワールは眠ることが多かった。山、畑、川が続くだけの車窓だったーーハンナは、同行者に気遣うことなく、無言の会話をしていた。同行者自身、ノワールと同様に、車中の揺れにまかせて、身体を左右に揺らしながら、老いた心身を、眠りによって休ませていた。眠っていないときには、本ーー聖職者は聖書以外の本も読むのだと知ったーーを読んでいた。タイトルからゲーテの本だと分かった。ハンナが本のタイトルを見ているのに気づくと、牧師はニッコリ微笑み、ポケットからキャンデーを取り出して、ハンナにくれたのだ。ハンナも微笑み、お礼を表すために、二度三度お辞儀をした。
途中駅に停車する度にヨハネスはハンナ達の乗っている客車までやって来た。いつの間にか、眼鏡と鬘をつけて、上下共、クリーム色の麻のスーツとズボン、パナマ帽に姿を変えていた。牧師の姿ではない、ヨハネスを最初見たとき、一瞬だけれど、ハンナには分からなかった。手に果物やノワールの為のミルクを抱えて、同行していた牧師と二言、三言言葉を交わし、列車の前後を見回すのだった。ハンナの視線に気づくと照れた笑みを浮かべて、後何時間でマルセイユにつくからと言った。ハンナもはにかみながら、たぶん、引きつって見える笑みを浮かべていたのだと思う。まだ、ハンナはヨハネスには慣れていなかったし、ヨハネスのハンナへの言葉も遠慮がちで、言葉数も少なかったから。あの列車の旅の頃は、ハンナとヨハネスの関係には、親密さはまだなかった。三人が客車の外の空気を吸っている間、ノワールは時折、客車から降りて、多分散歩?をしているのか、列車の下に潜り込み、化粧室代わりに使っていたのだろう。
ハンナが化粧室へ向かうときは、ヨハネスか牧師が同行し、見張りのように、外で待っていた。バーゼルにいた時とは、やや違う、緊張した感じのヨハネスだったと、今にして思い出す。
何があったかのか、ヨハネスからは説明はなかった。同行していた、ゴールドバッハという牧師は内情を知っていたのだろう。あの頃、まだ子供のハンナである自分には、まったく分からないことだらけだった。
エリーザベトという名前を、ゴールドバッハ牧師とヨハネスの会話の中から聞こえたのは、マルセイユに到着したときだった。
「どうやら、エリーザベトはぼくには気づかなかったのかもしれません」ヨハネスは同行してくれた牧師と別れ際に、確かにそう言った。その名前の女性が誰であるのか、いや、それよりもどんな人物であるかを知ったのは、マルセイユから船旅でアルジェリアに着いてからの事だった。
あの時まで、私(=ハンナ)は何も知らなかった。祖母へ会いにゆき、新しい生活が始まるという期待に満ちていただけだった。あの時、子供だった私は、ツァラトゥストラという名前が何を意味しているのか、そして、その後の出来事の集積から、そして、今こうして、あの時の記憶の断片を、私の記憶の地層を掘り起こしながら、全体の絵柄がなんだったのか、パズルのように組み合わせることで、ようやく何かが分かってくるのだった。それも、今、こうしてタイプする時間と空間である、1945年というこの年に、ジュネーブのホテルで、こうしてタイプしているというこのことで。
マルセイユは、ハンナにとって、初めて訪れる街のひとつだった。あれほど、両親とあちこちと旅をしたのにもかかわらず、南仏の旅ははじめてのことだった。もし、両親がまだ生きていれば...あるいは訪れているかもしれない。永遠にやってくることのない「もし」ではあるけれど。
海を眺めながら、ヨハネスとノワールの三人で、マルセイユに二日間、滞在することにした。長旅の疲れをとるのと、ちょっと準備があるからさ、とヨハネスは、青い海と帆を上げて進んでゆくたくさんの船を眺めながら、いつの間にか鼻の下に髭までつけて、さらに照れくさそうな笑顔を浮かべながら、快活に言った。その後、不思議なことに、ヨハネスはノワールの顔を見下ろして、うなづいてから、ハンナに、「まずは腹ごしらえからだね。魚のおいしいお店でも探そう。ノワールもそういっているし」
「(え?)」ハンナはヨハネスの顔を見上げて、その顔を注視していた。それから、紙を前掛けのポケットから取り出して、紙に単語を急いで書いて、ヨハネスに示した。
<ノワールの声が聞こえるの?>
「え?ああ、そう。でもぼくは精神がおかしいじゃないんだ。そんな怖がる必要はないよ」
<いいえ、恐くない。わたしもノワールの声、聞ける。心で会話もできる>
「え?そうなの。君もノワールと話ができるのかい」
ハンナは大きく、二三度、うなずいた。
「そう、そうなのか。ぼくの他にもノワールと話せる人がいたんだね。よかった、ぼくは自分の精神がおかしくなっているのかと思っていたんだよ。そう、ハンナ、君もノワールと話せるんだ。よかった。それはよかった。君にとっては、とても大切なことだね」ヨハネスは最初は、ドイツ語で話し始めていたが、やがて、フランス語を使って話してくれた。とても美しいフランス語を話すので、ハンナは驚いて、筆談で訊ねたほどだ。
「ああ、ぼくのフランス語かい?これはね、ぼくのママンから習ったんだ。ぼくのママンはフランス語を使う地方で育ったんだよ」
「おいおい、ヨハネスの話よりも、魚料理を喰いにゆこうぜ」ノワールの声が突然、ハンナに届いた。ハンナはヨハネスを見上げると、ヨハネスも笑っていた。ふたり同時に声が届いたんだと分かった。
ヨハネスの提案で、三人はカシへ行く事にした。白ワインがおいしいらしいよ、と子供のような笑顔で、ヨハネスは言うのだった。
(次回)