第十一回

第一回
前回

ハンナの表情が前よりも和らいできたのを見て、ヨハネスは、ハンナとの距離を少し縮めることができたのでは、と思った。ハンナは、はにかんではいるが、笑顔を見せてくれたし、ヨハネスのフランス語についても、関心を示してくれた。
 マルセイユで馬車を拾い、カシの町まで向かった。ハンナとノワールが何か話しーー勿論、心の中の会話なのだがーーをしているときを、二人の様子から分かるようになった。馬車の中で、ハンナがノワールの顔を見下ろし、ノワールのほうは、そのエメラルド色の双眸をきょろきょろさせ、鼻を中心に円を描くように、微妙に小さく動いているときが、そうなのだろうと思った。
 それにしても、ヨハネスは、自分の精神に異常を来しているのではないことを知り、ひと安心した。猫と話ができるなどということを第三者へ話したら、相手は冗談のために言ったのかと思うか、それとも親身になって、しかし、自分に害を及ぼすのを防ぐ為にも、丁寧かつ慇懃な態度で対応するに違いない。そして、しばらくすると、休養をとるべきだとか、親切心から病院の紹介をするのだろうな。最近は、フロイト博士が有名ですぞ、などと言うに違いない。もっとひどいのになると、聖職者たるべき、などと説教されるかもしれない。
 いずれにしても、この猫、ノワールとの会話の件については、ハンナとの秘密にしておく必要がある。ハンナがまだ子供であり、利用するわけではないが、声を使うことができないので、しばらくはいいのだけれど...

 二人と一匹は馬車を降りると、町はずれの小さなレストランの店先に並ぶテーブルのひとつに座った。猫を連れては店内に入れないし、例のエリーザベト達が尾行していたとしても、繁華街より外れにゆけば、追っ手達が目立つので分かるので、町の中心から外れた場所を選んだ。もっとも、シケという町自身、小さな港と人の数もそれほど多くないため、ヨハネス達にとっては、地の利を得た場所でもある。
 店の主人みずからが、注文をとりに出て来て、ノワールを見ると、追い払おうとしたので、ヨハネスは笑いながら、飼い猫なんですよと説明した。まさか、友達なのですと説明する訳にはゆかない。ノワールが気を悪くしないか心配までしてしまったが、店主は猫の分の心付けを受け取ると、ニコニコして、シケの風光明媚さや、「今日のブイヤベースは格別だと言いながら、シケの白は最高ですよ、旦那」と言ってウインクまでした。
 料理を運んできたのはおかみさんで、「まあ可愛らしいお嬢ちゃん、何処から来たの?」と聞いた。ヨハネスはあわてて「この娘は、ちょっと喉を痛めていて、静養をしているところなんだ」と言って、並々と白(blanc)の入ったデカンタを受け取りながら、ハンナをかばった。「まあ、それは大変、栄養をつけなくちゃね」と慰めの言葉をかけてから、おかみさんは「これはそっちの猫ちゃんへ」と言って、新聞紙に載せた大きな焼き魚を地面の上に置いた。ノワールはいつもよりも唸り声を大きくして、すぐに魚に集中し始めた。
 ハンナは、テーブルの上の皿に盛られた魚介のブイヤベースに眼をぱちくりしながら、ヨハネスの顔を見て、はにかんだようだけれと笑顔を浮かべ、ヨハネスがさめない内に食べようと言うと、手を振った。お祈りのポーズ、両手を組み合わせて、ヨハネスの顔を覗いた。「ああ、そうだった」とヨハネスは祈りを捧げ終わり、ハンナがスプーンをとり、スープを一口啜ってから、またはにかんでいるが、笑顔を浮かべた。「うん、おいしいかい。ぼくはこっちさ」とヨハネスは言い、白を注いだグラスを掲げた。一口含むと、確かにここの気候に合う味だと思った。ブイヤベースのスープを一口啜ってから、白をもう一口。いかんな飲み過ぎないようにな、と自分に言い聞かせた。
 港に停泊している船を眺めながら、白を舐めていた。ハンナとノワールは食後の腹ごなしに、船のそばを歩いている。九月の陽光が雲一つない空から降り注いでいて、停泊している船はゆっくりと波に揺られながら、太陽の光に包まれていた。ハンナとノワールが港の先端まで歩いてゆくのが見える。
 その時、町の中心方向から一台の馬車がやって来て店の前に停車した。御者が馬車の扉が開けると、一組の男女が降りて来た。ヨハネスは何気なくこちらに向かって歩いている女性の顔を見て、グラスを落としそうになった。白い上下の薄手の衣装を着け、白い麦わら製の帽子の、エリーザベトと、淡いブルー地のスーツにクリーム色のパンツの<ねずみ>が歩いているのだ。
 しかし、二人が店先の、ヨハネスの隣の席のテーブルへ座ると、それは、ヨハネスの誤解で、二人の客は、エリーザベトにも<ねずみ>にも似ていない、他人の空似ですらない、幻想だと気づいた。ほっと一息ついて、グラスの残りの白を煽った。いけない、酔いが少し回ってきたのだろう。
 ヨハネスの策略のために、エリーザベトは今頃、イベリア半島を南下しているところだ。そして、ジブラルタル海峡を渡ってゆくのだから....
 あまりにも緊張の日々の所為と、アルコールの為に、幻想を見てしまうのか。
 店の主人が、ふたりに愛想笑いを浮かべて、今日の天気が良いこと、新鮮な魚が入ったことなどを並べて、営業していた。女性客のほうは、あまりヨハネスが見つめていたせいか、ヨハネスの方へちらと視線を向けてから、店の主人へニッコリ微笑んで、「白をいただこうかしら、それとブイヤベースも」と注文しているのが聞こえた。
 ヨハネスは店の勘定を済ませると、港の先端にいるハンナ達のところへ行った。
「さあ、これから映画をみせてあげよう。この先のラ・シオタという町に映画館があるんだよ」
 ハンナは嬉しそうな顔で、同意を示すように、何度もうなずいてくれた。
 実は、ラ・シエタで次の計画があったのだ。
だが、ヨハネスもついでに、映画というものを、リュミエール兄弟の作ったという映画を見物してみたいと思っていた。
 ヨハネス達は馬車を走らせ、ラ・シエタへ、次なる計画のための場所へと向かった。

(次回へ)