うぐいす色な記憶 (1)
いつだったか、「黄昏のエクソシスト」という小説を書こうと
試みて失敗した。
物語る誘惑に敗れたのだ。
物語る誘惑は誰もが持っている。
地表のあらゆる場所で、局所的な地理学と
トポロジーやフラクタルな形状の中で、人は物語る。
トポロジーやフラクタルな形状の中で、人は物語る。
ネイティブアメリカンは物語る。
バッファローやコヨーテや鷲のイマージュと部族である一人称、
複数でも一人称となる、フラクタルな線を、
人と世界の境界もフラクタルで、境目が分からない、
不分明な境界という呼び名すら使えないような、
混沌とした中に、色や線や音を対応づけるために。
バッファローやコヨーテや鷲のイマージュと部族である一人称、
複数でも一人称となる、フラクタルな線を、
人と世界の境界もフラクタルで、境目が分からない、
不分明な境界という呼び名すら使えないような、
混沌とした中に、色や線や音を対応づけるために。
アイヌ語の中には、多くの物語る色や音や線が残っているのだ。
AKB48の舞台の向こう側の観客席で、
サイリームの流れる鈍い光の螺旋に沿って、
おたく族のMIXの中にもアイヌ語の物語る命が蘇ってくる。
サイリームの流れる鈍い光の螺旋に沿って、
おたく族のMIXの中にもアイヌ語の物語る命が蘇ってくる。
だが、私は物語ることから解放されたいのだが、
小説の形にすると物語る誘惑に負け、
ストーリーの線を気にして、ほんとうに書きたいことを忘れてしまう。
小説の形にすると物語る誘惑に負け、
ストーリーの線を気にして、ほんとうに書きたいことを忘れてしまう。
ほんとうに書きたいことは、フィクションを書くことでは書けない。
フィクションには、真実がある場合もあるだろうが。
だが、大抵は人が気に入るような話を作りだすことになる。
ほんとに読みたいことは書けなくなる。
最近、ますます物語には退屈している。
ゴルゴ13を読みながら、暗殺者が書く日記のことを想像したりする。
スピノザの「エチカ」を読む、暗殺者はどんな日記を書くのだろう。
「レオン」の暗殺者のように、植木の植物を愛するのだろうか。
「黄昏のエクソシスト」
あれは、自分の体験から書こうとした小説だったが、
そんな体験など無い事に気づく。
そう、わたくしという現象は、
かつて病院で交流電流の一部だったことがあった。
かつて病院で交流電流の一部だったことがあった。
「カッコウの巣の上で」を観たときに、何かを思い出していた。
ジャック・ニコルソン演じる、病院という檻から抜け出そうとする
精神病というラベルを貼られた、
社会からの脱走者マックマーフィー。
精神病というラベルを貼られた、
社会からの脱走者マックマーフィー。
原作を翻訳で読んだら、主人公は、チーフと呼ばれる、
大男のネイティブアメリカンになっている。
そして、チーフはニコルソンの代わりに、
病院から脱走し、踊りながら走り去る。
病院から脱走し、踊りながら走り去る。
いっさいから自由になったチーフは、真の勇者なのだ。
聾唖者のフリークを演じ続け、ついにニコルソン演じる
マックマーフィーを苦痛から解放してやり、自ら自由になる。
マックマーフィーを苦痛から解放してやり、自ら自由になる。
私のいた病院はどうだったろう。
そう、エクソシストが必要な病院だった。
そして、エクソシストは黄昏どきにやってきた。
病院のベッドという場所は、
入院している者にとっての世界の不動点になっている。
入院している者にとっての世界の不動点になっている。
ブリキの太鼓を叩くオスカル(「ブリキの太鼓」グラス)のように、
病院のベッドの、白いシーツの上で、
世界へ向けて演奏しなければならないのか。
世界へ向けて演奏しなければならないのか。
それでは、私の記憶の古層を掘り進めてみようか・・・・・・・