◆頑張りすぎて疲れた時に
http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-1887.html
虫になる前はこうでしたよ、虫になった後はこうでしたよ、って話なんだけど。虫になったザムザは、虫になったことに凄いビビるわけ。凄いビビるんだけど、それは『ヤバイ、会社にいけない』ってことなんだ。
それで数日すると、凄い好きだった食べ物とかが美味くなくなって、『残飯美味い、残飯美味い』ってなってくるの。それで、暗い部屋の天井をカサカサって動くと、『すげぇカサカサ(笑)メッチャ面白い、メッチャ面白い(笑)』ってなってくるわけ。
(中略)
もう喋りたくてしょうがないの。登校拒否を始めて、1日目から3日目までの楽しさね。学校に行かなくて良い楽しさと、『このまま俺、どうなるんだろう』って不安と、窓から見える同級生の誘いに来た川野くんの姿
→今年から就職して、早くも5月病になりそうな私は
今こそ変身にかぎらず、カフカを読むべきかも知れませんね。
◆頑張ってもうまくいかない時に
http://oekakigakusyuu.blog97.fc2.com/blog-entry-349.html
よく質問で 「どうすれば、絵が上手くなりますか?」 と、聞く方がいます。
この場合、 「とりあえず、下手でもいいから楽しく描きましょう!」 と答えるんですが
質問した人は、ピンとこない人もいるようです。
特に質問をする方は、 何が下手なのかが分かっていない所が多いと思います。
そこで、一度自分で上達しない(下手な)原因を探ってみてください。
自分で原因を探る事で、勉強の仕方が変わりますよ。
◆頑張って達成したい目標ができた時に
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-583.html
小さくとも毎日の繰り返しが100日なら100日分、1000日なら1000日分の積み重ねとなり、それは決して小さくない成果をもたらすことは、物心ついた後の人なら誰でも理解する。理解はするが、チリのごとき小さな一片は、眼の前のこと=日々の慰安や状況の浮沈、風の吹き具合に翻弄されて、さながら大海を渡る小さな葉のようである。
有効なのは、綿密な計画を立てることよりも、実行したことを記録することの方である。毎日繰り返すわずかのことを、ひとつひとつ記録し、積み上げると総計どれほどになるかを常に「見える化」しておくことが、地味だが最善の動機付けテクニックである。自分を叱咤激励するよりも、そしてやらなかったことを悔やみ自責の念にかられるよりも、行ったことをただ淡々と記録すること。自分が日々わずかであっても、どれだけ進んだかの航海日誌(ログ)をとること。
そうして自分の現在地点を把握し続けること。
このログ・システムでは、記録中のカテゴリーに属する行動が次第に増加することが知られている。つまり増やしたい行動を記録すればいいのだ。記録をとるのは、自分を律するためというより、調子付かせるためである。辛い点をつけても、負の自己満足以外の効果は生まれない。
最初はハードル(あるいは閾値)を下げて、より小さな行動を拾い上げるようにする。たとえば「1時間を満たないアラビア語学習」はカウントしないよりも「10分間勉強した」「1ページの半分だけ教科書を読んだ」といったものもカウントした方がいい。記録を続ければ行動は増えていくから(大切なのは、わずかな増加であってもそれを自覚することである)、軌道に乗ってからハードル(閾値)を上げても遅くない。野心の実現に直接関わる行動が思ったよりも増えないならば、さらに間接的に関わる行動も記録するといい。
私の数少ない成功体験として、受験、英検、ダイエットなどがあるが
やはりこういったものは「調子づく」感覚があった。
今はDDRや筋トレ、会社での適応について調子が悪いので、今日から早速記録していきたい。
◆頑張りが認められる環境を考えるときに
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120417
・中央集権を続けていることが日本の停滞の最大の原因
・政治と行政に競争原理が働く
・国民は多様な価値観での生活を選択できる
「道州制」が解決になるかどうかはともかくとして、
(現在のアメリカの問題とか見てると、道州制のマイナスは相当大きい。
日本みたいに議論能力がない国家でそれをやったらヤバイという気もしている)
「多様な価値観での生活を選択できること」ってのは今後重要かな、と。
私は病気をしてきて、いろんなところで正解=普通の人間として許容されるイメージがひとつしかない場所ではいつも「足手まとい」「劣等者」などの扱いを受けてきた。それに対して、どうすれば良いかも示されず、本当に適応ということについては苦労した。おそろしく狭い「普通」という観念がホントに嫌いだ。
上の記事は経済の話が多いけれど、私は普通の人の意識自体が問題だと思う。
だから、私は道州制よりもまず、教育においてこういう改革がなされればいいかな、と。
私自身は幼少時、学校という場で「間違った政治体験」「窮屈な教育体験」
を持ってしまうことによって、そういったものに反発することだけ考えてしまい
積極的にそれらについて学ぶということをシなかったため今とても苦戦してます。
◆頑張っても何かを失敗しそうな時に
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/04/post-d825.html
潰れるというのは、ある意味当たり前なんですよ。
だから、潰れたときのことを、みんな見ています。
周囲がチャレンジを容認するかはどう潰したか次第です。
いろんな人に、迷惑は一応かけるわけだから。
苦しければ、苦しいと言ってください。必ず何か方法はあります。
潰れそうであれば、相談してください。だって、どうしようもないんでしょ。
ぎりぎりになって追加出資を求めてくるようなの。
本当にやめてください。そういういい加減な仕事。
遅れるなら遅れるで、一言あればどう対応しようか、ってなるじゃないですか
前を向いて仕事をしている会社同士しっかり最後まで仕事をやりたいわけです。
着地がたとえ悪くても、最後までやったってのが大事で、
じゃあ次をどうするかってなるじゃないですか。
そういう当たり前のことを続けていく中で、
たまに折り合いが悪くて会社が潰れてしまった、っていう話なら、
喜んで再チャレンジに手を貸しますよ
この信頼さえあれば、倒れた時のことをきにせずがんばれる。
もはや会社や社会にこういうことを期待するのは難しいけれど、
せめて、周りの人に数人でもいいから、
一生懸命頑張ってたらそれを認めてくれて、倒れた時に助けてくれるような人を見つけたい。
それが今の自分の目標になると思う
◆今日のツイート
雑兵物語なんか見ても、足軽が参戦する最大の目的は略奪ですね。略奪ができるから戦国大名に従って戦場に行く。そんなだから命が危険になれば即座に逃げ出す。戦場で命を張って戦うのは、主君から死後の保証を受けている武士階層でした。戦場で命張れば名声が上がって給料が上がるし、死んでも主君が家族の面倒みてくれるエリート正社員の武士と、出来高の臨時報酬目当てだから勝ってるうちは良いけど生命は張りたくない短期バイトの雑兵の違いですね
(雑兵視点からみた経営も語られるべきだと思うけどね)
女の子が痩せたいって言ってる理由は男によく見られたいからじゃなくてカワイイ服やキレイな服を可愛く綺麗に着こなしたいからであって男どものちょっとぽっちゃりしたほうが可愛いとかそういう意見は全くもって的外れなんだよクソが。良い服を着ている自分が好きなんですよ。だから必死で体型を維持しているから異性に褒められるのは嬉しくても、異性にもてるためじゃない
(Papa told me以来、一部の女性はずっとこのことを主張しているけれど、
実際は「わたしはねわたしのためにかわいいの」って人はそう多くない)
http://simatomoki.tumblr.com/post/85133297
◆◆◆フィルターバブル &閉じこもるインターネット
http://www.ted.com/talks/eli_pariser_beware_online_filter_bubbles.html
http://d.hatena.ne.jp/founder/20120416/1334546890
小田嶋隆さんの、twitter評論記事もあわせて読みたい
◆働く理由
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-1771.html
◆戦略・作戦・戦術・兵站
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20120416/1334543387
◆経営戦略よりも重要なこと
http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/14771
◆メタ経営戦略
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20120417/1334632766
◆◆ブログの教科書
http://d.hatena.ne.jp/adgt/20120409/1333934359
◆コンテンツの将来、いや現在
http://togetter.com/li/287839
◆マンガ=五大湖フルバースト
http://namekujinagaya.blog31.fc2.com/blog-entry-2122.html
◆クトゥルー系ゲーム一覧
・鋼炎のソレイユ
・3days - 満ちてゆく刻の彼方で
・朝の来ない夜に抱かれて
・果てしなく青い、この空の下で
・MOON STRIKE Lost chronicle
・終末少女幻想アリスマチック
・蒼色輪廻
・アトリの空と真鍮の月
・沙耶の唄とデモンベイン
雑兵物語なんか見ても、足軽が参戦する最大の目的は略奪ですね。略奪ができるから戦国大名に従って戦場に行く。そんなだから命が危険になれば即座に逃げ出す。戦場で命を張って戦うのは、主君から死後の保証を受けている武士階層でした。戦場で命張れば名声が上がって給料が上がるし、死んでも主君が家族の面倒みてくれるエリート正社員の武士と、出来高の臨時報酬目当てだから勝ってるうちは良いけど生命は張りたくない短期バイトの雑兵の違いですね
(雑兵視点からみた経営も語られるべきだと思うけどね)
女の子が痩せたいって言ってる理由は男によく見られたいからじゃなくてカワイイ服やキレイな服を可愛く綺麗に着こなしたいからであって男どものちょっとぽっちゃりしたほうが可愛いとかそういう意見は全くもって的外れなんだよクソが。良い服を着ている自分が好きなんですよ。だから必死で体型を維持しているから異性に褒められるのは嬉しくても、異性にもてるためじゃない
(Papa told me以来、一部の女性はずっとこのことを主張しているけれど、
実際は「わたしはねわたしのためにかわいいの」って人はそう多くない)
http://simatomoki.tumblr.com/post/85133297
◆◆◆フィルターバブル &閉じこもるインターネット
http://www.ted.com/talks/eli_pariser_beware_online_filter_bubbles.html
http://d.hatena.ne.jp/founder/20120416/1334546890
小田嶋隆さんの、twitter評論記事もあわせて読みたい
◆働く理由
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-1771.html
◆戦略・作戦・戦術・兵站
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◆経営戦略よりも重要なこと
http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/14771
◆メタ経営戦略
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20120417/1334632766
◆◆ブログの教科書
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◆クトゥルー系ゲーム一覧
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・3days - 満ちてゆく刻の彼方で
・朝の来ない夜に抱かれて
・果てしなく青い、この空の下で
・MOON STRIKE Lost chronicle
・終末少女幻想アリスマチック
・蒼色輪廻
・アトリの空と真鍮の月
・沙耶の唄とデモンベイン
てんかん協会からの要望書読んだ。
http://t.co/rB8GY9Xw
非常に全うな提言。 決しててんかん患者を一方的にかばうような内容ではない。 てんかん協会を批判している人はちゃんと読むべき
私はてんかんではないが「椎骨脳底動脈循環不全」であり、運転中にめまいを起こしやすいことがわかって運転免許を取得することを諦めた。 「運転免許取得について差別するな」とは全く思わないが、自分の症状についてアレルギー体質の理解などと同様に理解して扱って欲しいと思うことはある。
そもそも「椎骨脳底動脈循環不全」だけれど、症状は「めまいを起こしやすい」だけであって、しかも私の場合は軽度なので、日常生活ではつかれていない限りはほとんど症状が出ることはないし、自分がそういう症状だと気づくことなく下手をすると運転免許取得できていたかもしれない
私が、自分自身そういう異常があることを知ったのは、たまたま別の病気で入院していた時、検査でそれが発覚したからであり、知らずに運転免許を取得して、加害者になっていた可能性は少なくない。 そう考えると、多くの人が車を運転しているというのは怖いことだと感じる
みんなも車は危険なものだという認識がありつつ、でも必要な物だからというので、「運転免許制度があるから大丈夫」と思い込みたいのじゃないかな。 その制度がもたらす安心をおびやかすというのでてんかん患者を過剰に忌避とか排斥しようとしてる印象がある。
「てんかんの人に限らず、運転は危険だよ。みんな気をつけよう」ってところをスタートラインにして、じゃあてんかん患者についてどう取り扱うかをヒステリーにならずに考えればいいのに。 と、運転免許制度の外側にいる人間は他人事のように考えてしまうわけで。私からしたらプロ以外いらないのでね
献血の時のエイズ検査じゃないけど、免許取得にあれだけ理不尽に高額な金取るんだったら、運転免許取得者にはMRI検査とか病歴調査とかやってくれればいいのに。 ああでもそこでなにか異常が見つかると差別する国民性だから出来ないのかなぁ(毒
高校の時まで、他の人より1つ年上だったし、ずっとめまいとか立ちくらみが多くて、周囲からからかわれたり、逆に過剰に気を使われたりしてそれがずっとコンプレックスだったし、病気であることがわかっても、周りは全然理解してくれないか、えんがちょ的な対応とか根性論押し付けされることが多くて、つい病気や異常者に対する扱いにはいつもひねくれた態度を取っちゃうな
http://t.co/alm5szFA
しかし、自分が事情知らないだけなのに「差別なんかなかった」「クローズを正当化するな」と自信満々におっしゃる人たちにはさすがにイラッとする。 知らないことは罪じゃないが、知ろうとしないなら発言もしないで
私の身体異常(椎骨脳底動脈循環不全) はてんかんよりずっと軽いものだったが、それでも最初オープンにしてたのを結局クローズにするようになった。 軽々しく「クローズはよくない」「オープンにすべき」とか言われると殴りたくなる。 誰だって好きでクローズにしてんじゃないやい。
差別ってホントに些細なネガティブ感情の積み重ねだぜ。 表面上は普通でも「わざわざ面倒な気遣いをしたくない」「あいつが特別扱いされるのは気に入らない」とかそんなちっこい嫌悪感が積み重なって、こちらがなにか落ち度をしたり迷惑をかけたら「ワッ」という勢いで襲ってくる
いまだにマンガとかドラマで描かれるいじめみたいな、直接的で分かりやすいのしか想像できない人がたくさんいるんだろうけれど、実際にはもっと静かで表面的にはニコニコしてるけど常に緊張を強いる空気みたいな感じなんだ。 それで、いきなり空気が反転するのがめちゃくちゃ怖いんだ
こっちだって、周りの人が悪人だとは全く思ってないし、むしろ普段は気を使わせてるなと思ってるさ。だから「普通の人とかわらないよアピール」とか「自分で十分自己管理に気をつけますからみなさんは気にしないでアピール」するけど時々疲れる。
何が違うかって、疲れたり失敗した時に、他の人だったら「どんまい」とか「まぁそういうこともあるよ」と笑って済まされることでも、私の時は周りの空気が凍る。 すごく大げさに対応されたり、するんだよ。 んでものすごい罪悪感に苛まれる。つらい。
んで、周囲にこういうふうに気を使わせて、
さんざん自分の事を話しては距離を取られるという経験を積み重ねてきましたが、
私にとってオープンにすると何か得なことってあるのか?楽しいことってあったか?
それでもクローズにしようと思うことが悪いのか?私だけが悪いのか?
「なんでもオープンであるべきだ」という人は、発言の責任はどこまで考えてるのか?
自分の身の回りでてんかん患者をうけいれる覚悟が本当にできてるのか?
いざ近くにそういう人物が来たら、福島のがれきと同じように扱うんじゃないのか?
母親でさえ「もうつかれた、死にたい」などの発言を言う時があるに、
赤の他人であるあなた達はどこまで付き合ってくれるのか?
なんでそんなに軽々しくオープンにすべきなんてことが言えるのか。無神経にも程がある。
どうせ「日本には差別がないってことにしたいけれど、病気のやつは、俺のいないところで、他のやつが面倒みろ」って思ってるだけだろ?
もう経験で嫌というほどわかってんだよ。
「知らない時はものすごくきれいごとを言う奴に限って、
身の回りにそういう奴がいると、誰よりもうろたえて、逃げようとする」んだ。
知らないがゆえに発することができる綺麗なコトバをいくら積み重ねられても、
それで人を信用するなんて、私には無理だ。
だから私はクローズ状態で生活してる。
もちろん私はクローズにする代わりに、不利益は自分の責任で引き受けたさ。
運転免許は自ら辞退した。私だって加害者になりたくはないから。
今でもお酒なんかは一切飲まないし、運動だってかかさずやってる。
私はたまたま、日常生活にほとんど支障がない類の異常だから
デスクワークなら、クローズでも問題無いという判断をした。
それでも、時々ひどいめまいがあっても、それについて理解を求めたり言い訳はできない。
「昨日夜更かししすぎて」とかいってごまかすからちょっと不まじめな印象を与えてるだろう。
いろいろ悔しい思いはしてる。好きでクローズ状態をやってるわけじゃない。
嘘つきだとかズルをしているみたいに言われるのは腹が立つ。
http://t.co/rB8GY9Xw
非常に全うな提言。 決しててんかん患者を一方的にかばうような内容ではない。 てんかん協会を批判している人はちゃんと読むべき
私はてんかんではないが「椎骨脳底動脈循環不全」であり、運転中にめまいを起こしやすいことがわかって運転免許を取得することを諦めた。 「運転免許取得について差別するな」とは全く思わないが、自分の症状についてアレルギー体質の理解などと同様に理解して扱って欲しいと思うことはある。
そもそも「椎骨脳底動脈循環不全」だけれど、症状は「めまいを起こしやすい」だけであって、しかも私の場合は軽度なので、日常生活ではつかれていない限りはほとんど症状が出ることはないし、自分がそういう症状だと気づくことなく下手をすると運転免許取得できていたかもしれない
私が、自分自身そういう異常があることを知ったのは、たまたま別の病気で入院していた時、検査でそれが発覚したからであり、知らずに運転免許を取得して、加害者になっていた可能性は少なくない。 そう考えると、多くの人が車を運転しているというのは怖いことだと感じる
みんなも車は危険なものだという認識がありつつ、でも必要な物だからというので、「運転免許制度があるから大丈夫」と思い込みたいのじゃないかな。 その制度がもたらす安心をおびやかすというのでてんかん患者を過剰に忌避とか排斥しようとしてる印象がある。
「てんかんの人に限らず、運転は危険だよ。みんな気をつけよう」ってところをスタートラインにして、じゃあてんかん患者についてどう取り扱うかをヒステリーにならずに考えればいいのに。 と、運転免許制度の外側にいる人間は他人事のように考えてしまうわけで。私からしたらプロ以外いらないのでね
献血の時のエイズ検査じゃないけど、免許取得にあれだけ理不尽に高額な金取るんだったら、運転免許取得者にはMRI検査とか病歴調査とかやってくれればいいのに。 ああでもそこでなにか異常が見つかると差別する国民性だから出来ないのかなぁ(毒
高校の時まで、他の人より1つ年上だったし、ずっとめまいとか立ちくらみが多くて、周囲からからかわれたり、逆に過剰に気を使われたりしてそれがずっとコンプレックスだったし、病気であることがわかっても、周りは全然理解してくれないか、えんがちょ的な対応とか根性論押し付けされることが多くて、つい病気や異常者に対する扱いにはいつもひねくれた態度を取っちゃうな
http://t.co/alm5szFA
しかし、自分が事情知らないだけなのに「差別なんかなかった」「クローズを正当化するな」と自信満々におっしゃる人たちにはさすがにイラッとする。 知らないことは罪じゃないが、知ろうとしないなら発言もしないで
私の身体異常(椎骨脳底動脈循環不全) はてんかんよりずっと軽いものだったが、それでも最初オープンにしてたのを結局クローズにするようになった。 軽々しく「クローズはよくない」「オープンにすべき」とか言われると殴りたくなる。 誰だって好きでクローズにしてんじゃないやい。
差別ってホントに些細なネガティブ感情の積み重ねだぜ。 表面上は普通でも「わざわざ面倒な気遣いをしたくない」「あいつが特別扱いされるのは気に入らない」とかそんなちっこい嫌悪感が積み重なって、こちらがなにか落ち度をしたり迷惑をかけたら「ワッ」という勢いで襲ってくる
いまだにマンガとかドラマで描かれるいじめみたいな、直接的で分かりやすいのしか想像できない人がたくさんいるんだろうけれど、実際にはもっと静かで表面的にはニコニコしてるけど常に緊張を強いる空気みたいな感じなんだ。 それで、いきなり空気が反転するのがめちゃくちゃ怖いんだ
こっちだって、周りの人が悪人だとは全く思ってないし、むしろ普段は気を使わせてるなと思ってるさ。だから「普通の人とかわらないよアピール」とか「自分で十分自己管理に気をつけますからみなさんは気にしないでアピール」するけど時々疲れる。
何が違うかって、疲れたり失敗した時に、他の人だったら「どんまい」とか「まぁそういうこともあるよ」と笑って済まされることでも、私の時は周りの空気が凍る。 すごく大げさに対応されたり、するんだよ。 んでものすごい罪悪感に苛まれる。つらい。
んで、周囲にこういうふうに気を使わせて、
さんざん自分の事を話しては距離を取られるという経験を積み重ねてきましたが、
私にとってオープンにすると何か得なことってあるのか?楽しいことってあったか?
それでもクローズにしようと思うことが悪いのか?私だけが悪いのか?
「なんでもオープンであるべきだ」という人は、発言の責任はどこまで考えてるのか?
自分の身の回りでてんかん患者をうけいれる覚悟が本当にできてるのか?
いざ近くにそういう人物が来たら、福島のがれきと同じように扱うんじゃないのか?
母親でさえ「もうつかれた、死にたい」などの発言を言う時があるに、
赤の他人であるあなた達はどこまで付き合ってくれるのか?
なんでそんなに軽々しくオープンにすべきなんてことが言えるのか。無神経にも程がある。
どうせ「日本には差別がないってことにしたいけれど、病気のやつは、俺のいないところで、他のやつが面倒みろ」って思ってるだけだろ?
もう経験で嫌というほどわかってんだよ。
「知らない時はものすごくきれいごとを言う奴に限って、
身の回りにそういう奴がいると、誰よりもうろたえて、逃げようとする」んだ。
知らないがゆえに発することができる綺麗なコトバをいくら積み重ねられても、
それで人を信用するなんて、私には無理だ。
だから私はクローズ状態で生活してる。
もちろん私はクローズにする代わりに、不利益は自分の責任で引き受けたさ。
運転免許は自ら辞退した。私だって加害者になりたくはないから。
今でもお酒なんかは一切飲まないし、運動だってかかさずやってる。
私はたまたま、日常生活にほとんど支障がない類の異常だから
デスクワークなら、クローズでも問題無いという判断をした。
それでも、時々ひどいめまいがあっても、それについて理解を求めたり言い訳はできない。
「昨日夜更かししすぎて」とかいってごまかすからちょっと不まじめな印象を与えてるだろう。
いろいろ悔しい思いはしてる。好きでクローズ状態をやってるわけじゃない。
嘘つきだとかズルをしているみたいに言われるのは腹が立つ。
「新型うつ」な人々』って本読んだら
「主体性がなく受け身」
「将来に対する展望がない」
「熱中した経験がない」
「運動があまり好きでない」人が
新型うつになりやすい、って書いてあった。それって僕のことですか?
別に「生きる力」が弱くても生きてますよ。
んだんだ。
「自分が正しいと思ってることは涙を流して喜びながら実行すべきなのにそうしない人間」や
「自分の過去の業績を褒め称え、傅き、模倣するべきなのにそうしない人間」に対して、
「俺がルールブックだ」といいきるほど傲慢にはなりきれないのだろう。
わざわざ「新型うつ病」などの自分たちにとってだけ都合のいい造語を生み出して
遠まわしに批判しようとする情けない人たちの声がでかい状況を思うと、
まだ「問答無用だ、ごちゃごちゃいうな」と強引に物事をすすめる
橋下市長のような独裁型リーダーの方がましだというキモチになる人の気持ちはわかる。
でも、「大人情けない」のあと、「強い大人を求める」みたいな反動的な方向にいくんじゃなくて、
「大人がだらしないから俺たち若者が頑張らないと」って思うことが大事だよな、と。
そんなアタリマエのことを忘れないようにしたい。
多分、そこを忘れると、現時点でみて、不満を自分以外の誰かに押し付けようとして
いろんな造語をつくって流通させることだけに心血を注ぐ駄目人間になる。
私はたとえ橋下市長が独裁者であろうが地獄への案内人であろうが、
彼の下で生きる市民たちに活力があって、
いざというときは彼にNOと言えるだけの気概があるなら別にどっちでもいいと思う。
問題は、橋下市長ではなくて、その下にいる人間の気力。
誰かに荷物を預けてサボろうとしているか、必要な時は自分で何とかしようと思ってるかどうか。
「主体性がなく受け身」
「将来に対する展望がない」
「熱中した経験がない」
「運動があまり好きでない」人が
新型うつになりやすい、って書いてあった。それって僕のことですか?
別に「生きる力」が弱くても生きてますよ。
んだんだ。
「自分が正しいと思ってることは涙を流して喜びながら実行すべきなのにそうしない人間」や
「自分の過去の業績を褒め称え、傅き、模倣するべきなのにそうしない人間」に対して、
「俺がルールブックだ」といいきるほど傲慢にはなりきれないのだろう。
わざわざ「新型うつ病」などの自分たちにとってだけ都合のいい造語を生み出して
遠まわしに批判しようとする情けない人たちの声がでかい状況を思うと、
まだ「問答無用だ、ごちゃごちゃいうな」と強引に物事をすすめる
橋下市長のような独裁型リーダーの方がましだというキモチになる人の気持ちはわかる。
でも、「大人情けない」のあと、「強い大人を求める」みたいな反動的な方向にいくんじゃなくて、
「大人がだらしないから俺たち若者が頑張らないと」って思うことが大事だよな、と。
そんなアタリマエのことを忘れないようにしたい。
多分、そこを忘れると、現時点でみて、不満を自分以外の誰かに押し付けようとして
いろんな造語をつくって流通させることだけに心血を注ぐ駄目人間になる。
私はたとえ橋下市長が独裁者であろうが地獄への案内人であろうが、
彼の下で生きる市民たちに活力があって、
いざというときは彼にNOと言えるだけの気概があるなら別にどっちでもいいと思う。
問題は、橋下市長ではなくて、その下にいる人間の気力。
誰かに荷物を預けてサボろうとしているか、必要な時は自分で何とかしようと思ってるかどうか。
「女性が悩みを打ち明ける時、女性はアドバイスを求めているのではなく共感してもらいたがっているのです、とか言ってる」記事を見ると、時々記事の書き手を殴りたくなるくらいイラッとする。
それって死ぬほどゼイタクな話じゃないですかね・・・。
「悩みなんてうまいもの食って遊んで寝てオナニーすれば解消する」と言われ続けて十数年。
自分が何かに悩んでいたとしても、
世の中では多分男の悩みは、殆どが「解決可能なもの」として扱われるから
「・・・について真剣に悩んでるんです」って男が言ったところで
「悩んでるなら解決しろ」「ソープに行け」で終わりだろう。
悩みなんて、解決しないまでも解消させるべきもので、
そんなものはコストでしかなく、ハンデとしか扱われない。
悩みを解決・解消できないで後生大事に抱えていることは、
「無能」のレッテルを貼られることでしかない。
発言すること自体が封じられているといっても良い。
安全保障上致命的なスキであって、こんなものを表にだそうものなら、
女々しい奴として、体育会系に蹴散らされて終わりだ。
悩むことが許されるのは、悩みを打ち明けても平気な勝ち組か、
誰かの絶対的な庇護下にあって、安全を考えなくてもすむ人たちだけだろう。
「悩むなら勝ってからにしろ」「悩むなら安全を確保しろ」というが、
勝てるくらいなら、安全が確保できていれば、悩まないだろうに。
なんか矛盾してる
惨めな負け犬の遠吠えだとは思うけれど涙がでるほど「共感」してしまう。
それって死ぬほどゼイタクな話じゃないですかね・・・。
「悩みなんてうまいもの食って遊んで寝てオナニーすれば解消する」と言われ続けて十数年。
自分が何かに悩んでいたとしても、
世の中では多分男の悩みは、殆どが「解決可能なもの」として扱われるから
「・・・について真剣に悩んでるんです」って男が言ったところで
「悩んでるなら解決しろ」「ソープに行け」で終わりだろう。
悩みなんて、解決しないまでも解消させるべきもので、
そんなものはコストでしかなく、ハンデとしか扱われない。
悩みを解決・解消できないで後生大事に抱えていることは、
「無能」のレッテルを貼られることでしかない。
発言すること自体が封じられているといっても良い。
安全保障上致命的なスキであって、こんなものを表にだそうものなら、
女々しい奴として、体育会系に蹴散らされて終わりだ。
悩むことが許されるのは、悩みを打ち明けても平気な勝ち組か、
誰かの絶対的な庇護下にあって、安全を考えなくてもすむ人たちだけだろう。
「悩むなら勝ってからにしろ」「悩むなら安全を確保しろ」というが、
勝てるくらいなら、安全が確保できていれば、悩まないだろうに。
なんか矛盾してる
惨めな負け犬の遠吠えだとは思うけれど涙がでるほど「共感」してしまう。
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20120408/1333872896
読んでいて、自分がいろんな方向に振り回されて酔ったような気分になる記事だ。
まず導入は私にとっても分かりやすい
恋愛という言う言葉について
「恋」を「相手を支配する/されることで所有しようとする欲望」(ナルシシズム)
「愛」を「相手を認めること」(肯定)と定義する。
相手を認めるためには、まず、自分を認めなければならない。
そのときに大事なのは、自己肯定できない自分を否定するのではなく、
そのまま受け入れることである。
、二村さんが提案するのは、「一度、親のせいにしてみる」ことだ。
「私が自己肯定できないのは、自分が悪いからではなく、親が私に心を開けたせいなんだ」と考える。
その次に、「でも、どんなよい親も、子どもの心に穴をしまうから、仕方ないんだ」と受け容れていくのである。
ここまでは、女性向けの本だけれど、男の私にもあてはまるアドバイスだと思う。
私は3年くらい鬱で何も出来ない時期があり、今でもまぁ常人よりは
すぐにネガティブスパイラルに陥りやすいのだけれど、こういう考えは役に立つ。
まさにこれが「美しいコトバ」で描かれている内容であり、私なんかは結構救われた気分になった。
単純極まりない男性の私は、悩みはこの程度のアドバイスで結構解決するのである。
結局、男の場合、心でどう考えてようが、社会的な成功とかのほうが大事になるしね。
周囲が悩みに価値も共感も全く与えてくれず、
やらなければいけないことを山ほど押し付けてくれることでかえってそこにとらわれずにすむ。
疲れたら、ちょっと休んでまたがんばろう。
誰かを憎む心が自分を足を止めてしまうなら、
その問題を自分で解決するべく主体的に行動しよう、と。
でも、作品の感想でも書いたとおり、これだと「青い鳥」的な教訓にとどまっている。
私はその軽さが好きなのだが、真剣に考えるならここで終わり、では行けないだろう。
ここからもう一段階潜らなければいけない。
「美しいコトバ」で描かれている問題はまだ「共有可能」な表面部分であり、
その底にはもっと深刻なものが沈んでいるようだ。
ある女性が抱えている問題は、こんなにわかりやすくなくて、もっとドロドロとしているようだ。
つまりトラウマを覗きこんで取り除くという外科手術や、
コトバによる内服薬の投与といった分かりやすい方法ではどうにもならない、
もっと内面の深い所と一体化した内容なのかもしれない。
記事の著者は上記の内容に続けてこのように書く。
自分はまったく心を動かされなかったという感想を持っている。もっと言うと、私が一番苦しくて、男性とうまく関係が築けず、セックスしたいのにしても満たされず、どうにもこうにも身動きできない沼にはまっていたころ、こんな「わかってくれそうな男性」の本では、何も救われなかったということである。私の心の穴は、液状化し、ずっとそれ以外のことを考えられない底なし沼になってしまっていたからだ
そんな男性からのなまっちょろい理解で癒されるほど甘くねーぞ、と。
というよりも、そういう男性の態度こそも、形を変えた支配にすぎないんだよ、と
自分を否定している女性の、助けになる本を書いた二村さんもまた、女性を「理解する」という名のもとで所有し、支配しているということになるのではないか。「わかってあげたい」「なんとかしてあげたい」という、二村さんの気持ちが、この本からうっすらと漏れてくるように、私は感じる。だから、「まさか、私を支配する気じゃなあるまいな?」と思い、違和感を持ち続けた。
ここはグサっときた。もちろん、私は「美しいコトバ」を読んで、女性を理解したとか、これでいいのだとかは思ってない。 むしろ「美しいコトバ」よりも、男視点で描き、女は傷を明かしきらず、男に依存しきらず、むしろ男が女に溺れていくという形式で話しが継続する「ジェーン・ドゥ」の方が好きなので、そういうもんだとは思っている。
しかし一方で、男性としてはこれ以上できることはないように感じていたから、明確に女性の側から線引きをサれたようで少し苦しい気持ちになる。実際、私が好きなergで、女性のトラウマを覗こうとするような行為は「レイプファンタジー」などと呼ばれていて、身体ではないにせよ心を犯す行為であって、罪深いことに変わりない、という指摘もあるらしい(詳しくは知らない)
その後がまた壮絶だ。
ぐちゃぐちゃで、みっともない自分、そして矛盾に満ちた私を、「だから女は」とせせら笑う男への憎しみが、私の男への嫌悪感の源にあった。取り乱す私を、「女は感情的だ」と貶めてきた男たち。男を憎んでるんだから、男と関係を築けるわけもない。私は、男に絶望して、男を憎んでいる自分に苦しんだ。それはそうだ。世界の半分くらいの人は男で、そんなにたくさんの人間を憎んで生きていくのは苦しい。そして、それ以上に、憎んでしまう自分が疎ましかった。けれど、穏やかな気持ちでもあった。
「自己嫌悪は苦しいよね?抜け出したいよね?」なんて常識的なコトバが通じる世界ではない。
苦しいけれど、憎むことによって今日も息ができる。眠ることができる。
そこで悪夢を見ることになっても、私にとって憎むことの苦しみは生きることと同一だ、と。
「わかってあげたい」程度のキモチでどうにか出来るのか、と?覚悟を迫られてる感じだ。
しかしこの話に救いがあるとしたら、
「美しいコトバ」とこの記事の著者の結論はほぼ同じであることだろうか。
私の勘違いかもしれないが。
自分は汚辱と共に生きてきたと思い続けてきたが、それはまちがいであった。己の「痛み」を通じて闇を視た者の、その闇とは光への道に通じる、その入り口に他ならない。「己れは己れ」といった場合の、その前者の己れとは存在が感知する「痛み」のことであり、後者の己れはその「痛み」を通じて甦った生命の輝きに他ならない。人は、「生命」のもつ可能性を卑しめられるその「痛み」を、その「怒り」を原点に、己れを支配/被支配のない世界へと飛翔させていくのだ。
自己肯定は可能である、と。光への道は閉ざされていない、と。
ただし、男性や母によって負わされた傷は、別に男性や母に癒して貰う必要はないのだ。
むしろそんなコトはほとんど不可能なので、期待するな、こだわりを捨てろ、別の道をさぐれ、と。
私のそのプロセスは、間違っても、男とよい関係を作ることを目標にしていない。むしろ、そうした関係を説く男を、突き放すことでしかはじまらなかった。(そして、突き放したあと、やっと男を憎むことをやめる糸口みたいなものは見えるようになった
そして、最終的には自分でその傷を引き受けて、
そこをスタートラインにして傷だらけのまま生きていけば良いのだ、と語る。
無理に癒さなくても生きていける。 それに耐えて歩くことはできる。
そのうち、傷も自分の一部として肯定できるようになれば、世界も変わる、と。
引き裂かれ、空転し、矛盾に苦しむ女を、「それが、私だ」といって引き受ける田中美津の言葉を通して、私は自分で自分を引き受けた。「私は、そういう女だ」と言うことは、開き直りではない。「そういう女たちとつながっていく」という希望である。
この痛みを出発して、別の自分のありようを探す、同志がいると信じること。私が、自分を無価値だとしか思えなくても、同じように生き直そうと立ち上がる女を、無価値だと思えない、というような、他人の肯定をすることで、私はいつか自分を肯定するようになった。他人を選別する視線が、自分を選別する視線に反転したように、他人への肯定が自分への肯定へと反転した
で、まるでここまで男という立場に甘えて、
部外者のようにしてぼんやりと女性を眺めていていると、
いきなり自分に向かって矢が飛んでくる。
女性の「恋やセックスの苦しみ」は女性だけの問題では、ありません。彼女たちが「男を愛せる」ようになるためには、男たちもインチキじゃない自己肯定をしていかないといかん。性的な存在である自分を、女性を利用せずに、自分自身で肯定するとはどういうことか。自己否定している自分が、暴力をふるってしまったあと、どう自分を変えていけるのか。
さて困ったことになった。まるで思いつかない。
上で書いたように、男性である私の場合、
他のことで忙しくすることで(心を亡くすとはよく言ったものだと思う)
考えずに済んでいるだけ、そこに囚われているヒマが無いだけという部分が大きい。
だから、極点にヒマを恐れる、ヒマを楽しむことが出来ない。
そして、他人に共感ことを嫌い、お節介をやいて解決しようとする。
男性が共感を嫌うのは、相手の重荷を一緒に背負うことであるからだ。
男性は女性より、精神的な重荷に対するキャパシティが絶対的に少ないのだ。
そういう訓練をしていないからだ。
「それよりもちゃんと勉強しろ、ちゃんと仕事しろ」と言われ続けてきたからだ。
問題に突き当たった時に、解決のために動き出す前に立ち止まって悩むという行為は
ゼイタクだといって禁じられてきたからだ。
心の悩みは、酒や遊びによって速やかに解消(解決ではない)し、
抱え込まないよう教育されてきたのだ。
心の悩みでパフォーマンスを低下させる奴は女々しいやつだと言われ差別の対象だった。
高校時代、必死に頑張って周囲についていこうとして、大学に入ったら燃え尽きてしまった。
復帰には3年かかったが、結局休んで体力を回復させただけで、
悩みに対する姿勢は、何も変わっていない。まるで成長していない。
ただ、遊びとしてergやラノベという、お手軽な方法を身につけただけだ。
性別として一応男性の範疇に入る人間として、
なんだか男が情けないままだと女性にも迷惑がかかるようなので、
自分だけの問題ではなく、頑張らないといけないのだが、正直逃げ出したいほど重い話だなぁ
読んでいて、自分がいろんな方向に振り回されて酔ったような気分になる記事だ。
まず導入は私にとっても分かりやすい
恋愛という言う言葉について
「恋」を「相手を支配する/されることで所有しようとする欲望」(ナルシシズム)
「愛」を「相手を認めること」(肯定)と定義する。
相手を認めるためには、まず、自分を認めなければならない。
そのときに大事なのは、自己肯定できない自分を否定するのではなく、
そのまま受け入れることである。
、二村さんが提案するのは、「一度、親のせいにしてみる」ことだ。
「私が自己肯定できないのは、自分が悪いからではなく、親が私に心を開けたせいなんだ」と考える。
その次に、「でも、どんなよい親も、子どもの心に穴をしまうから、仕方ないんだ」と受け容れていくのである。
ここまでは、女性向けの本だけれど、男の私にもあてはまるアドバイスだと思う。
私は3年くらい鬱で何も出来ない時期があり、今でもまぁ常人よりは
すぐにネガティブスパイラルに陥りやすいのだけれど、こういう考えは役に立つ。
まさにこれが「美しいコトバ」で描かれている内容であり、私なんかは結構救われた気分になった。
単純極まりない男性の私は、悩みはこの程度のアドバイスで結構解決するのである。
結局、男の場合、心でどう考えてようが、社会的な成功とかのほうが大事になるしね。
周囲が悩みに価値も共感も全く与えてくれず、
やらなければいけないことを山ほど押し付けてくれることでかえってそこにとらわれずにすむ。
疲れたら、ちょっと休んでまたがんばろう。
誰かを憎む心が自分を足を止めてしまうなら、
その問題を自分で解決するべく主体的に行動しよう、と。
でも、作品の感想でも書いたとおり、これだと「青い鳥」的な教訓にとどまっている。
私はその軽さが好きなのだが、真剣に考えるならここで終わり、では行けないだろう。
ここからもう一段階潜らなければいけない。
「美しいコトバ」で描かれている問題はまだ「共有可能」な表面部分であり、
その底にはもっと深刻なものが沈んでいるようだ。
ある女性が抱えている問題は、こんなにわかりやすくなくて、もっとドロドロとしているようだ。
つまりトラウマを覗きこんで取り除くという外科手術や、
コトバによる内服薬の投与といった分かりやすい方法ではどうにもならない、
もっと内面の深い所と一体化した内容なのかもしれない。
記事の著者は上記の内容に続けてこのように書く。
自分はまったく心を動かされなかったという感想を持っている。もっと言うと、私が一番苦しくて、男性とうまく関係が築けず、セックスしたいのにしても満たされず、どうにもこうにも身動きできない沼にはまっていたころ、こんな「わかってくれそうな男性」の本では、何も救われなかったということである。私の心の穴は、液状化し、ずっとそれ以外のことを考えられない底なし沼になってしまっていたからだ
そんな男性からのなまっちょろい理解で癒されるほど甘くねーぞ、と。
というよりも、そういう男性の態度こそも、形を変えた支配にすぎないんだよ、と
自分を否定している女性の、助けになる本を書いた二村さんもまた、女性を「理解する」という名のもとで所有し、支配しているということになるのではないか。「わかってあげたい」「なんとかしてあげたい」という、二村さんの気持ちが、この本からうっすらと漏れてくるように、私は感じる。だから、「まさか、私を支配する気じゃなあるまいな?」と思い、違和感を持ち続けた。
ここはグサっときた。もちろん、私は「美しいコトバ」を読んで、女性を理解したとか、これでいいのだとかは思ってない。 むしろ「美しいコトバ」よりも、男視点で描き、女は傷を明かしきらず、男に依存しきらず、むしろ男が女に溺れていくという形式で話しが継続する「ジェーン・ドゥ」の方が好きなので、そういうもんだとは思っている。
しかし一方で、男性としてはこれ以上できることはないように感じていたから、明確に女性の側から線引きをサれたようで少し苦しい気持ちになる。実際、私が好きなergで、女性のトラウマを覗こうとするような行為は「レイプファンタジー」などと呼ばれていて、身体ではないにせよ心を犯す行為であって、罪深いことに変わりない、という指摘もあるらしい(詳しくは知らない)
その後がまた壮絶だ。
ぐちゃぐちゃで、みっともない自分、そして矛盾に満ちた私を、「だから女は」とせせら笑う男への憎しみが、私の男への嫌悪感の源にあった。取り乱す私を、「女は感情的だ」と貶めてきた男たち。男を憎んでるんだから、男と関係を築けるわけもない。私は、男に絶望して、男を憎んでいる自分に苦しんだ。それはそうだ。世界の半分くらいの人は男で、そんなにたくさんの人間を憎んで生きていくのは苦しい。そして、それ以上に、憎んでしまう自分が疎ましかった。けれど、穏やかな気持ちでもあった。
「自己嫌悪は苦しいよね?抜け出したいよね?」なんて常識的なコトバが通じる世界ではない。
苦しいけれど、憎むことによって今日も息ができる。眠ることができる。
そこで悪夢を見ることになっても、私にとって憎むことの苦しみは生きることと同一だ、と。
「わかってあげたい」程度のキモチでどうにか出来るのか、と?覚悟を迫られてる感じだ。
しかしこの話に救いがあるとしたら、
「美しいコトバ」とこの記事の著者の結論はほぼ同じであることだろうか。
私の勘違いかもしれないが。
自分は汚辱と共に生きてきたと思い続けてきたが、それはまちがいであった。己の「痛み」を通じて闇を視た者の、その闇とは光への道に通じる、その入り口に他ならない。「己れは己れ」といった場合の、その前者の己れとは存在が感知する「痛み」のことであり、後者の己れはその「痛み」を通じて甦った生命の輝きに他ならない。人は、「生命」のもつ可能性を卑しめられるその「痛み」を、その「怒り」を原点に、己れを支配/被支配のない世界へと飛翔させていくのだ。
自己肯定は可能である、と。光への道は閉ざされていない、と。
ただし、男性や母によって負わされた傷は、別に男性や母に癒して貰う必要はないのだ。
むしろそんなコトはほとんど不可能なので、期待するな、こだわりを捨てろ、別の道をさぐれ、と。
私のそのプロセスは、間違っても、男とよい関係を作ることを目標にしていない。むしろ、そうした関係を説く男を、突き放すことでしかはじまらなかった。(そして、突き放したあと、やっと男を憎むことをやめる糸口みたいなものは見えるようになった
そして、最終的には自分でその傷を引き受けて、
そこをスタートラインにして傷だらけのまま生きていけば良いのだ、と語る。
無理に癒さなくても生きていける。 それに耐えて歩くことはできる。
そのうち、傷も自分の一部として肯定できるようになれば、世界も変わる、と。
引き裂かれ、空転し、矛盾に苦しむ女を、「それが、私だ」といって引き受ける田中美津の言葉を通して、私は自分で自分を引き受けた。「私は、そういう女だ」と言うことは、開き直りではない。「そういう女たちとつながっていく」という希望である。
この痛みを出発して、別の自分のありようを探す、同志がいると信じること。私が、自分を無価値だとしか思えなくても、同じように生き直そうと立ち上がる女を、無価値だと思えない、というような、他人の肯定をすることで、私はいつか自分を肯定するようになった。他人を選別する視線が、自分を選別する視線に反転したように、他人への肯定が自分への肯定へと反転した
で、まるでここまで男という立場に甘えて、
部外者のようにしてぼんやりと女性を眺めていていると、
いきなり自分に向かって矢が飛んでくる。
女性の「恋やセックスの苦しみ」は女性だけの問題では、ありません。彼女たちが「男を愛せる」ようになるためには、男たちもインチキじゃない自己肯定をしていかないといかん。性的な存在である自分を、女性を利用せずに、自分自身で肯定するとはどういうことか。自己否定している自分が、暴力をふるってしまったあと、どう自分を変えていけるのか。
さて困ったことになった。まるで思いつかない。
上で書いたように、男性である私の場合、
他のことで忙しくすることで(心を亡くすとはよく言ったものだと思う)
考えずに済んでいるだけ、そこに囚われているヒマが無いだけという部分が大きい。
だから、極点にヒマを恐れる、ヒマを楽しむことが出来ない。
そして、他人に共感ことを嫌い、お節介をやいて解決しようとする。
男性が共感を嫌うのは、相手の重荷を一緒に背負うことであるからだ。
男性は女性より、精神的な重荷に対するキャパシティが絶対的に少ないのだ。
そういう訓練をしていないからだ。
「それよりもちゃんと勉強しろ、ちゃんと仕事しろ」と言われ続けてきたからだ。
問題に突き当たった時に、解決のために動き出す前に立ち止まって悩むという行為は
ゼイタクだといって禁じられてきたからだ。
心の悩みは、酒や遊びによって速やかに解消(解決ではない)し、
抱え込まないよう教育されてきたのだ。
心の悩みでパフォーマンスを低下させる奴は女々しいやつだと言われ差別の対象だった。
高校時代、必死に頑張って周囲についていこうとして、大学に入ったら燃え尽きてしまった。
復帰には3年かかったが、結局休んで体力を回復させただけで、
悩みに対する姿勢は、何も変わっていない。まるで成長していない。
ただ、遊びとしてergやラノベという、お手軽な方法を身につけただけだ。
性別として一応男性の範疇に入る人間として、
なんだか男が情けないままだと女性にも迷惑がかかるようなので、
自分だけの問題ではなく、頑張らないといけないのだが、正直逃げ出したいほど重い話だなぁ
魔法使いの夜では久々にエロスケで100点をつけてみたりなどしたのですが、
なぜこの作品こんなに好きなのか、と思っていた時に読んだ記事。
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-540.html
この映画「アーティスト」についての記事を読んで
「魔法使いの夜」に満点をつけた理由が何となくわかってので自己満足だけど書いておく。
これはハリウッド映画をこよなく愛するフランス人から届いたラブレターの様な作品で、こんな狂おしいまでのハリウッドLOVEを、外国の映画人たちによって告白されたら、そりゃあ賞の一つもあげたくなるだろう。この21世紀の素敵な無声映画は、ロマンチックな映画への愛と、過ぎ去った時代へのノスタルジー、胸躍るエンターテイメントに溢れている。
ストーリーも合わせてみると、作品の内でも外でも濃厚なラブストーリーになっているようだ。
「ヒューゴの不思議な発明」も面白かったのでこれもぜひ映画館で楽しみたいと思うが、
「魔法使いの夜」も、過去作品への思い入れが大いに作品評価に影響している気がする。
没落してゆくジョージの人生を軸に、スターダムを駆け上がる若きぺピーの人生を交錯させることで、彼らの運命が力強い葛藤を作り出すのだが、アザナヴィシウスは更に登場人物と映画史をリンクさせる事で、本作を映画の神話として物語ろうとする。サイレントとトーキーの再会から、一気にミュージカルの誕生に持ってゆく鮮やかなストーリーセンスには、思わず膝を打った。
ちょっと違うようだが「魔法使いの夜」の構造にも似ているような気がする。
失われていくもの(山の生活=特定の目的において人としての極限を目指す)と、
これから成長するもの(魔術=技術によって人を越える)が出会うことで
魔法(新しい世界)への扉が開かれるという展開。 ・・・ちょっと無理がある?
サイレントとトーキーの関係と違って、両者に直接的、系譜的な繋がりはないからな。
でも、雰囲気は多分似てるはずだ。
サイレント映画、と言っても正確には無声映画なので音楽は存在するが、改めて劇場のスクリーンでこの種の映画を観ると、いかに現在の映画が音声の力に頼っているかが良くわかる
これについても、「魔法使いの夜」は、オーバーラップして感じるものがある。
TYPE-MOONは同人時代の非力な演出からスタートしている。
あの時は、シナリオとキャラの魅力だけで勝負せざるを得なかった。
それが、法人化でブラッシュアップされるだけでなく、
ラノベやアニメーション畑を経由して培った映像技術を用いて、
現在のエロゲーの主流である音声に頼らず演出で魅せる作品に挑戦している。
このあたり「竜騎士07th」氏とは事情を比較しながら思い返すと面白い
思うに、「アーティスト」はアイディア賞的な一本であって、今後多くの映画に影響を与える様な作品ではないだろう。しかしそれは、本作が重要な作品では無いという事を意味しない。この21世紀の素敵な無声映画は、ロマンチックな映画への愛と、過ぎ去った時代へのノスタルジー、胸躍るエンターテイメントに溢れている。この作品を一発屋と捉える事は簡単だが、少なくともこの一発は映画が発明されて117年、トーキーになってから83年間、誰も打ち上げる事が出来なかった、奇跡の一発なのである。
あくまで私にとって、だけれど、魔法使いの夜はまさにこんな感じの奇跡の一発なのだと思う。
そしてそこに、制作陣たちのノベルゲーム業界やらなんやらへの愛を感じてしまった自分がいる。
なんだかノベルゲームをプレイしているだけの私達消費者へのラブレターをもらったような、
そんな気分になってしまった。
だから100点でも200点でも好きなだけくれてやる、って気分になったのでした。
なぜこの作品こんなに好きなのか、と思っていた時に読んだ記事。
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-540.html
この映画「アーティスト」についての記事を読んで
「魔法使いの夜」に満点をつけた理由が何となくわかってので自己満足だけど書いておく。
これはハリウッド映画をこよなく愛するフランス人から届いたラブレターの様な作品で、こんな狂おしいまでのハリウッドLOVEを、外国の映画人たちによって告白されたら、そりゃあ賞の一つもあげたくなるだろう。この21世紀の素敵な無声映画は、ロマンチックな映画への愛と、過ぎ去った時代へのノスタルジー、胸躍るエンターテイメントに溢れている。
ストーリーも合わせてみると、作品の内でも外でも濃厚なラブストーリーになっているようだ。
「ヒューゴの不思議な発明」も面白かったのでこれもぜひ映画館で楽しみたいと思うが、
「魔法使いの夜」も、過去作品への思い入れが大いに作品評価に影響している気がする。
没落してゆくジョージの人生を軸に、スターダムを駆け上がる若きぺピーの人生を交錯させることで、彼らの運命が力強い葛藤を作り出すのだが、アザナヴィシウスは更に登場人物と映画史をリンクさせる事で、本作を映画の神話として物語ろうとする。サイレントとトーキーの再会から、一気にミュージカルの誕生に持ってゆく鮮やかなストーリーセンスには、思わず膝を打った。
ちょっと違うようだが「魔法使いの夜」の構造にも似ているような気がする。
失われていくもの(山の生活=特定の目的において人としての極限を目指す)と、
これから成長するもの(魔術=技術によって人を越える)が出会うことで
魔法(新しい世界)への扉が開かれるという展開。 ・・・ちょっと無理がある?
サイレントとトーキーの関係と違って、両者に直接的、系譜的な繋がりはないからな。
でも、雰囲気は多分似てるはずだ。
サイレント映画、と言っても正確には無声映画なので音楽は存在するが、改めて劇場のスクリーンでこの種の映画を観ると、いかに現在の映画が音声の力に頼っているかが良くわかる
これについても、「魔法使いの夜」は、オーバーラップして感じるものがある。
TYPE-MOONは同人時代の非力な演出からスタートしている。
あの時は、シナリオとキャラの魅力だけで勝負せざるを得なかった。
それが、法人化でブラッシュアップされるだけでなく、
ラノベやアニメーション畑を経由して培った映像技術を用いて、
現在のエロゲーの主流である音声に頼らず演出で魅せる作品に挑戦している。
このあたり「竜騎士07th」氏とは事情を比較しながら思い返すと面白い
思うに、「アーティスト」はアイディア賞的な一本であって、今後多くの映画に影響を与える様な作品ではないだろう。しかしそれは、本作が重要な作品では無いという事を意味しない。この21世紀の素敵な無声映画は、ロマンチックな映画への愛と、過ぎ去った時代へのノスタルジー、胸躍るエンターテイメントに溢れている。この作品を一発屋と捉える事は簡単だが、少なくともこの一発は映画が発明されて117年、トーキーになってから83年間、誰も打ち上げる事が出来なかった、奇跡の一発なのである。
あくまで私にとって、だけれど、魔法使いの夜はまさにこんな感じの奇跡の一発なのだと思う。
そしてそこに、制作陣たちのノベルゲーム業界やらなんやらへの愛を感じてしまった自分がいる。
なんだかノベルゲームをプレイしているだけの私達消費者へのラブレターをもらったような、
そんな気分になってしまった。
だから100点でも200点でも好きなだけくれてやる、って気分になったのでした。