いつもニコニコ、あなたのおそばに這い寄る混沌、親学です。
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20120502/1335985207
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100422/p1
「発達障害は治療すれば治る」 → 「発達障害児の親は治療を怠っている」 → 「自己責任ドーン!」。間違ってるだけでなく、書き手(明星大教授・高橋史朗氏)の障害者への差別意識が垂れ流されている。「障害者にきちんとした手当をすると、教育予算が不足して問題になる」と主張してるようにしか読めません。ふざけんな! まずテメーの人間性からなんとかしやがれっ!
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20120504/p1
お腹いっぱい全部入りラーメンっていうか、ああ日本の福音派か(ここで言う「福音」は教育勅語ね)とびみょーな気持ちになる。結局アメリカの「ティーパーティー」さんたちと同じような思考回路の有力者+有権者がかなり存在する、ということらしいです
「親学」というコンセプトだけなら、宇都宮や名古屋ではすでに行政に取り入れられてます。「親学」はもう私やあなたのすぐそばにきているのです
んで、やってることが、親の欲望駄々漏れでまたすごい。
「子どもが親を思って作る詩(川柳)」だそうです。これを大人の側から要求して作らせて発表させるというコンセプトがすごいよね?「子どもに尊敬されたい、愛されたい」って欲望を身も蓋もなくさらけ出して肯定できるってすごいよね。
親の期待に応えようとする子どもの愛情と親の自尊心が阿鼻叫喚ですよ。
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20120502/1336026552
日本でも発達障害の支援体制はだいぶ整ってきているが、「医療」「療育」の範囲に届かない、軽度・ボーダーラインのケースについてはまだまだ手薄で、教育現場も親も、個人が背負いこんで頑張るしかない状況であると聞いている。上記に書いたように、それが原因で親や教師が燃え尽きたり、本人がいじめにあったり自信をなくして引きこもったり荒れたりすることもある。アメリカの中でも対策が手厚い学区で、しっかりサポートしてもらっている私ですら、しばしば燃え尽きそうになるので、支援も周囲の理解も得られない親御さんがどれほど大変な思いをしているか、想像を絶する。
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20120503/1336043613
☆http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100422/p1
通常学級に在籍する特別な教育的支援の必要な子供は、小学校で11・7%に及んでいる。危惧されるのはこの11・7%の子どもたちに「必要」とされている「特別な教育的支援」がされているのか? ということ。
この中には、本来なら特別支援学級などで療育を受けるべき子が間違いなく含まれていると思うのですが、その場合、普通学級に在籍してること自体が問題となります。障害への偏見の強い日本では、親が子どもの障害を認めず、必要な療育を受けさせないケースが非常に多く、障害児が虐待を受ける率が有意に高いのは事実です。このことは、それだけ障害児を持つ親が追い込まれやすく、ストレスを抱えやすい
◆その他の混沌
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20080924/p1 食育www
http://d.hatena.ne.jp/rami17/20061026/p1 素手で便所掃除
他にも宗教上の理由か何かで
真冬に自分の娘に冷水ぶっかけて放置して殺害とかもアリましたね。
どうしてこうなった。
こういうのが広がるのは、やっぱりそれだけ不安とかプレッシャーがいろんな人に掛かってるんでしょうね。
http://togetter.com/li/293266
私自身の話をします。
少なくとも小学生の時、2年間身体障害であり(ペルテス病)
現在も軽度の身体障害があり自動車免許を持つことができません。
そして、2年間学校に通えなかったことで、その後の学校生活は
2年年上の状態で過ごすことになり、CLANNADの渚状態というか、まぁずっとぼっちでした。
岡崎さんみたいなイケメンはいなかったんだぜ。
そのことで、社会的コミュンケーション能力にはやや問題があるようです。
もしかしたら、発達障害でもあるかも知れないとは思ってます。診断したことはないけど。
私は発達障害かどうかはわかりませんが、コミュニケーションはとても苦手です。
大学の時も鬱になり、適応障害と診断されましたしねHAHAHA。
今は社会人になりましたが、なんとか適応しようと必死です。
「自然にやればいい」なんて言葉は私にとっては欺瞞でしかない。
いざ何か問題があれば、弁解の機会すら与えられず
「やっぱりな、これだから障害者は」と言って切り捨てられるのは恐怖です。
これは当事者にならないとわからない。
障害者として暮らすのはしんどかった。
2年間、特に1年目は治る見込みがなく、永遠に続くかもしれない重荷を
親に背負わせて、自分は行きている価値があるんだろうか、
死んだほうがいいんじゃないかといつも悩んでいました。
(後から、このまま治らないなら、一緒に死のうかと何度も思ったことがあるとか
知らないところでいろんな場所にお参りにいった事を聞いたりしました)
両親にはとても迷惑をかけていましたが、
両親は少なくとも病気の間はとても親切でした。
治療難の病気でしたが、運良く回復し、曲がりなりにも大学を卒業までできたことは
本当に親にどれだけ頭を下げても感謝しきれない程だと思っています。
ただ、病気が治り、学校に通い始めたのですが残念なことに学校生活が上手く行かず、
そのことで特に母がとても神経質になってしまいました。
周りの子に負けるな、お前は同学年でも歳上なんだ、ということで
塾やら水泳クラブやらいろんなところに通わされ、そこでも一番になることを求められ
病気の時よりも自由がなくなってしまいました。
友達を作れといいながら、あんな子とは付き合うなといったり、
四六時中私のことを気にして、管理しようとするようになり、
感謝の心と、恨みの心で、母と素直に向き合えなくなりました。
私は病気の時があったがゆえに、
それ以外のことでしんどいということが許されなかった。
体調不良だったり貧血状態でも「あの病気の時と比べたらマシだろう」とか
「またあの寝たきり状態に戻ったらどうする」ということで、
病気や体調不良をにおわせる態度を取ることすら叱責の対象でした。
多分母は「障害があった子」をなんとか「普通の子」にしようとしていた。
そうしなければならないという空気が強かったのだと思います。
だんだん、母はその「普通の子」というイメージに縛られ、
そこから逆算して、私の至らない点を指摘するばかりになりました。
私自身がどういう人間であるか、という点を見てくれなくなったように感じました。
多分、母も必死だったのだと思います。怖かったのだと思います。
本当に自分のことを思っていてくれていたのだと思います。
でも、相手がどれだけ自分のことをおもっていてくれていたとしても、
実際には、会話もろくにできない関係で、
私にとって母は自分を押しつぶそうとする恐怖の存在でした。
母は怠惰だったわけでも、愛情がなかったわけでもないと思います。
むしろ私のことを大事に思ってくれて、必死に頑張った結果として、
ぼろぼろになってしまい、子である私とまともに話をすることもできなくなってしまった。
そんなふうに感じます。
今年もGW中に帰省して親と会話したんですが、
やっぱりお互いに気を使ってぎこちなくなってしまいました。
きっと私が「普通の人」か立派な人間になって親を安心させられるまでは
まともに会話できないまんまだと思います。
どうしてこうなったんだろうっていつも悲しい気持ちになります。
私達がこうなったのは社会のせいだけではないけれど、
やはり今の環境は障害者に厳しいというのは間違いない。
この上さらに、親学の提唱するようなトンデモ論識がまかり通ると、
間違いなく、多くの親に、私の母が受けたようなプレッシャーがかかる。
目に見えます。そういうのは絶対反対です。
親学にはまってるバカな大人たちは
夏目漱石とか、「どんぐりの家」とかを読むといいと思う。
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20120502/1335985207
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100422/p1
「発達障害は治療すれば治る」 → 「発達障害児の親は治療を怠っている」 → 「自己責任ドーン!」。間違ってるだけでなく、書き手(明星大教授・高橋史朗氏)の障害者への差別意識が垂れ流されている。「障害者にきちんとした手当をすると、教育予算が不足して問題になる」と主張してるようにしか読めません。ふざけんな! まずテメーの人間性からなんとかしやがれっ!
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20120504/p1
お腹いっぱい全部入りラーメンっていうか、ああ日本の福音派か(ここで言う「福音」は教育勅語ね)とびみょーな気持ちになる。結局アメリカの「ティーパーティー」さんたちと同じような思考回路の有力者+有権者がかなり存在する、ということらしいです
「親学」というコンセプトだけなら、宇都宮や名古屋ではすでに行政に取り入れられてます。「親学」はもう私やあなたのすぐそばにきているのです
んで、やってることが、親の欲望駄々漏れでまたすごい。
「子どもが親を思って作る詩(川柳)」だそうです。これを大人の側から要求して作らせて発表させるというコンセプトがすごいよね?「子どもに尊敬されたい、愛されたい」って欲望を身も蓋もなくさらけ出して肯定できるってすごいよね。
親の期待に応えようとする子どもの愛情と親の自尊心が阿鼻叫喚ですよ。
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20120502/1336026552
日本でも発達障害の支援体制はだいぶ整ってきているが、「医療」「療育」の範囲に届かない、軽度・ボーダーラインのケースについてはまだまだ手薄で、教育現場も親も、個人が背負いこんで頑張るしかない状況であると聞いている。上記に書いたように、それが原因で親や教師が燃え尽きたり、本人がいじめにあったり自信をなくして引きこもったり荒れたりすることもある。アメリカの中でも対策が手厚い学区で、しっかりサポートしてもらっている私ですら、しばしば燃え尽きそうになるので、支援も周囲の理解も得られない親御さんがどれほど大変な思いをしているか、想像を絶する。
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20120503/1336043613
☆http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100422/p1
通常学級に在籍する特別な教育的支援の必要な子供は、小学校で11・7%に及んでいる。危惧されるのはこの11・7%の子どもたちに「必要」とされている「特別な教育的支援」がされているのか? ということ。
この中には、本来なら特別支援学級などで療育を受けるべき子が間違いなく含まれていると思うのですが、その場合、普通学級に在籍してること自体が問題となります。障害への偏見の強い日本では、親が子どもの障害を認めず、必要な療育を受けさせないケースが非常に多く、障害児が虐待を受ける率が有意に高いのは事実です。このことは、それだけ障害児を持つ親が追い込まれやすく、ストレスを抱えやすい
◆その他の混沌
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20080924/p1 食育www
http://d.hatena.ne.jp/rami17/20061026/p1 素手で便所掃除
他にも宗教上の理由か何かで
真冬に自分の娘に冷水ぶっかけて放置して殺害とかもアリましたね。
どうしてこうなった。
こういうのが広がるのは、やっぱりそれだけ不安とかプレッシャーがいろんな人に掛かってるんでしょうね。
http://togetter.com/li/293266
私自身の話をします。
少なくとも小学生の時、2年間身体障害であり(ペルテス病)
現在も軽度の身体障害があり自動車免許を持つことができません。
そして、2年間学校に通えなかったことで、その後の学校生活は
2年年上の状態で過ごすことになり、CLANNADの渚状態というか、まぁずっとぼっちでした。
岡崎さんみたいなイケメンはいなかったんだぜ。
そのことで、社会的コミュンケーション能力にはやや問題があるようです。
もしかしたら、発達障害でもあるかも知れないとは思ってます。診断したことはないけど。
私は発達障害かどうかはわかりませんが、コミュニケーションはとても苦手です。
大学の時も鬱になり、適応障害と診断されましたしねHAHAHA。
今は社会人になりましたが、なんとか適応しようと必死です。
「自然にやればいい」なんて言葉は私にとっては欺瞞でしかない。
いざ何か問題があれば、弁解の機会すら与えられず
「やっぱりな、これだから障害者は」と言って切り捨てられるのは恐怖です。
これは当事者にならないとわからない。
障害者として暮らすのはしんどかった。
2年間、特に1年目は治る見込みがなく、永遠に続くかもしれない重荷を
親に背負わせて、自分は行きている価値があるんだろうか、
死んだほうがいいんじゃないかといつも悩んでいました。
(後から、このまま治らないなら、一緒に死のうかと何度も思ったことがあるとか
知らないところでいろんな場所にお参りにいった事を聞いたりしました)
両親にはとても迷惑をかけていましたが、
両親は少なくとも病気の間はとても親切でした。
治療難の病気でしたが、運良く回復し、曲がりなりにも大学を卒業までできたことは
本当に親にどれだけ頭を下げても感謝しきれない程だと思っています。
ただ、病気が治り、学校に通い始めたのですが残念なことに学校生活が上手く行かず、
そのことで特に母がとても神経質になってしまいました。
周りの子に負けるな、お前は同学年でも歳上なんだ、ということで
塾やら水泳クラブやらいろんなところに通わされ、そこでも一番になることを求められ
病気の時よりも自由がなくなってしまいました。
友達を作れといいながら、あんな子とは付き合うなといったり、
四六時中私のことを気にして、管理しようとするようになり、
感謝の心と、恨みの心で、母と素直に向き合えなくなりました。
私は病気の時があったがゆえに、
それ以外のことでしんどいということが許されなかった。
体調不良だったり貧血状態でも「あの病気の時と比べたらマシだろう」とか
「またあの寝たきり状態に戻ったらどうする」ということで、
病気や体調不良をにおわせる態度を取ることすら叱責の対象でした。
多分母は「障害があった子」をなんとか「普通の子」にしようとしていた。
そうしなければならないという空気が強かったのだと思います。
だんだん、母はその「普通の子」というイメージに縛られ、
そこから逆算して、私の至らない点を指摘するばかりになりました。
私自身がどういう人間であるか、という点を見てくれなくなったように感じました。
多分、母も必死だったのだと思います。怖かったのだと思います。
本当に自分のことを思っていてくれていたのだと思います。
でも、相手がどれだけ自分のことをおもっていてくれていたとしても、
実際には、会話もろくにできない関係で、
私にとって母は自分を押しつぶそうとする恐怖の存在でした。
母は怠惰だったわけでも、愛情がなかったわけでもないと思います。
むしろ私のことを大事に思ってくれて、必死に頑張った結果として、
ぼろぼろになってしまい、子である私とまともに話をすることもできなくなってしまった。
そんなふうに感じます。
今年もGW中に帰省して親と会話したんですが、
やっぱりお互いに気を使ってぎこちなくなってしまいました。
きっと私が「普通の人」か立派な人間になって親を安心させられるまでは
まともに会話できないまんまだと思います。
どうしてこうなったんだろうっていつも悲しい気持ちになります。
私達がこうなったのは社会のせいだけではないけれど、
やはり今の環境は障害者に厳しいというのは間違いない。
この上さらに、親学の提唱するようなトンデモ論識がまかり通ると、
間違いなく、多くの親に、私の母が受けたようなプレッシャーがかかる。
目に見えます。そういうのは絶対反対です。
親学にはまってるバカな大人たちは
夏目漱石とか、「どんぐりの家」とかを読むといいと思う。
◆コミュニケーション万能主義にはまってる人はまずこれ
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2012/04/post-726e.html
Customer Value(Productに置き換わる要素)=ここでは何と言っても「早さ」が価値である。この「時間」に対する価値が近年高まっている。
Customer Cost(Priceに置き換わる要素)=この時短製品は通常製品より割高だったり、移動に関わるコストは特急料金が取られたりすることが多いが、場合、早さに対する代償を求められるわけではない。かなりお得だといえるだろう。
Convenience(Placeに置き換わる要素)=それは東京駅にエキナカという立地(Place)あってのことであるが、昼休みや仕事帰りに5分という圧倒的な利便性を提供している。
Communication(Promotionに置き換わる要素)=特にプロモーションを行っている様子はないが、口コミを中心として利用客は拡大するだろう。視察時にも夕方の帰宅時にあたったこともあり、かなりの客が足を運んでいた。
ここで、今一度注目したいのが、各要素の「整合性」である。
コミュニケーションはもちろん非常に重要ではあるのだが、相手のメリットを考えた時にそれだけで必要十分とはならない。
あくまで4本柱のうちの1つに過ぎないという事を十分に理解しておかないといけない。特に女の人に多いのだけれど、コミュニケーション能力はものすごく高いのだけれど、そこばっかり考えて、相手のメリットを十分に考えられていない人が多い。こういう人は、どれだけコミュニケーション能力が高くても、バランスが悪いので付き合い難い人になる。
現実にはない「仕事と私とどっちが大事なの」の寓話に見られるような発言をする人は、気をつけたほうがいい。
◆その上でコミュニケーションをどう運営するか。コミュニケーションプランニング。
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/04/post-1632.html
手順はまず、商品・サービスがどういった「コンテクスト」に埋め込まれるのかを考えることから始まり、そして、さまざまな種類の「顧客接点」を駆使する。もっと頭を使うべきだし愛を持って、人々のアクティビティを後押しする。
私が好きな言葉に
All communication is either a loving response or a cry for help.
というのがある。人とかかわるってことはぶっちゃけこの2つしかない。
だからこそ面白くて難しいのだ、って話がすごく感動した記憶がある。
人と関わるならばこの2つを意識して伸ばしていくべきだ、と。
そうでないならば、長く続かない。
だいじなものについては、手間隙かけて、頭を使って、愛情を注ごうよ、と。
星の王子さまの教訓でもありますね。
◆コミュニケーションの土台作り =神話・物語・自己啓発
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2012/04/post-5e13.html
世界と向き合い、世界を理解するための方法、それが神話だ。現実が辛いとき、現実と向き合っている部分をモデル化し、そいつと付き合う。デフォルメしたり理由付けすることで、自分に受け入れられるようにする。
例えば、かつてシャーマンや司祭が担ったことがらが、我々全員に委ねられようとしているという。衝動に駆られて行動したとき、幸福をとことんまで追求するとき、自分に何が起こるのかを教えてくれるのが、神話だった。神話を通じ、シャーマンや司祭は、何に嫌悪を抱き、どういうときに罪悪感を抱くのか、その社会の構成員の手引きをしていたのだ。ところが、神話の伝え手がいなくなったいま、判断の基準そのものが個々のものになっている。わたしはこれを、「価値観の多様化」「フラット化」という言葉で理解していたつもりだったが、「神話の喪失」と考えることもできる。ストーリーを自分で作り出さなければならない世の中になったんだ
昨日の自己啓発の記事とも関連するけれど、
まず他人とコミュニケーションするためには、主体として自分がなくてはいけない。
で、主体としての自分を確立するために、自己啓発や神話、物語に学ぶ。
そこからコミュニケーションの土台ができる。
上から順番に書いたけれど、コミュニケーションは
1:まず自分をしっかり固めて、
2:そこからプランニングを行い、
3:マーケティングを仕掛けていく
そんな形になると思う。
学校では、1を学ぶ前から3を実践させるようなところがあるし、
昔みたいに教師の人が面倒みてあげる事もできなくなっているから、大勢の脱落者が出る。
このあたり、難しいね。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2012/04/post-726e.html
Customer Value(Productに置き換わる要素)=ここでは何と言っても「早さ」が価値である。この「時間」に対する価値が近年高まっている。
Customer Cost(Priceに置き換わる要素)=この時短製品は通常製品より割高だったり、移動に関わるコストは特急料金が取られたりすることが多いが、場合、早さに対する代償を求められるわけではない。かなりお得だといえるだろう。
Convenience(Placeに置き換わる要素)=それは東京駅にエキナカという立地(Place)あってのことであるが、昼休みや仕事帰りに5分という圧倒的な利便性を提供している。
Communication(Promotionに置き換わる要素)=特にプロモーションを行っている様子はないが、口コミを中心として利用客は拡大するだろう。視察時にも夕方の帰宅時にあたったこともあり、かなりの客が足を運んでいた。
ここで、今一度注目したいのが、各要素の「整合性」である。
コミュニケーションはもちろん非常に重要ではあるのだが、相手のメリットを考えた時にそれだけで必要十分とはならない。
あくまで4本柱のうちの1つに過ぎないという事を十分に理解しておかないといけない。特に女の人に多いのだけれど、コミュニケーション能力はものすごく高いのだけれど、そこばっかり考えて、相手のメリットを十分に考えられていない人が多い。こういう人は、どれだけコミュニケーション能力が高くても、バランスが悪いので付き合い難い人になる。
現実にはない「仕事と私とどっちが大事なの」の寓話に見られるような発言をする人は、気をつけたほうがいい。
◆その上でコミュニケーションをどう運営するか。コミュニケーションプランニング。
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/04/post-1632.html
手順はまず、商品・サービスがどういった「コンテクスト」に埋め込まれるのかを考えることから始まり、そして、さまざまな種類の「顧客接点」を駆使する。もっと頭を使うべきだし愛を持って、人々のアクティビティを後押しする。
私が好きな言葉に
All communication is either a loving response or a cry for help.
というのがある。人とかかわるってことはぶっちゃけこの2つしかない。
だからこそ面白くて難しいのだ、って話がすごく感動した記憶がある。
人と関わるならばこの2つを意識して伸ばしていくべきだ、と。
そうでないならば、長く続かない。
だいじなものについては、手間隙かけて、頭を使って、愛情を注ごうよ、と。
星の王子さまの教訓でもありますね。
◆コミュニケーションの土台作り =神話・物語・自己啓発
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2012/04/post-5e13.html
世界と向き合い、世界を理解するための方法、それが神話だ。現実が辛いとき、現実と向き合っている部分をモデル化し、そいつと付き合う。デフォルメしたり理由付けすることで、自分に受け入れられるようにする。
例えば、かつてシャーマンや司祭が担ったことがらが、我々全員に委ねられようとしているという。衝動に駆られて行動したとき、幸福をとことんまで追求するとき、自分に何が起こるのかを教えてくれるのが、神話だった。神話を通じ、シャーマンや司祭は、何に嫌悪を抱き、どういうときに罪悪感を抱くのか、その社会の構成員の手引きをしていたのだ。ところが、神話の伝え手がいなくなったいま、判断の基準そのものが個々のものになっている。わたしはこれを、「価値観の多様化」「フラット化」という言葉で理解していたつもりだったが、「神話の喪失」と考えることもできる。ストーリーを自分で作り出さなければならない世の中になったんだ
昨日の自己啓発の記事とも関連するけれど、
まず他人とコミュニケーションするためには、主体として自分がなくてはいけない。
で、主体としての自分を確立するために、自己啓発や神話、物語に学ぶ。
そこからコミュニケーションの土台ができる。
上から順番に書いたけれど、コミュニケーションは
1:まず自分をしっかり固めて、
2:そこからプランニングを行い、
3:マーケティングを仕掛けていく
そんな形になると思う。
学校では、1を学ぶ前から3を実践させるようなところがあるし、
昔みたいに教師の人が面倒みてあげる事もできなくなっているから、大勢の脱落者が出る。
このあたり、難しいね。
◆http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20120419/1334815955
日本が欧州債務問題に貢献するためにIMFにポンと4.8兆円出資を決めたニュースと、2011年度の日本の貿易収支は計4.4兆円の赤字となり、過去最大となった
これまで輸出産業優先であった日本政府の経済政策が、IMF出資のニュースでは見事に国内復興より今だ優先されていることの現れであり、しかし過去最大の貿易収支の赤字は、実は輸出産業に頼る時代から新たに内需主導の経済成長に転換する時期の到来を予感させている。、日本は貿易収支が黒字で貿易外収支が赤字の時代から、貿易収支も貿易外収支も黒字の時代を経て、現在貿易収支は赤字で貿易外収支が黒字の時代へと移行しつつある
国内市場に可能な限りどんどんお金を投入すべきです。消費税を上げて市場を萎縮させ国内経済をますます冷やし庶民の生活を圧迫させることではなく、復興支援策をてこに内需を活性化させ国民所得の底上げと中小零細企業の売り上げ増につなげるべきです
「貿易収支に頼らず所得収支で経常黒字」になるを目標に!
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-432.html
そもそもユーロ圏の危機対策はESFS(欧州金融安定基金)と、それを引き継ぐESM(欧州安定メカニズム)が前面に立つもので、IMFの役割はあくまでも補助的かつ非常事態に限られるもの
IMFがユーロ危機に支援したところでそれはIMFの欧州における発言力が強まるだけで、IMFを通じて資金協力しただけの日本がユーロ諸国に何か発言できるはずがないのです。三井住友銀行から融資を受けているオリンパスに、三井住友銀行の預金者が何か要求しに行っても追い返されるだけなのと同じです。
「日本に続いて」北欧3国が合計263億ドルの資金協力を決めたと報道されていますが、これはそれぞれの国会決議が要るはずで(日本と違って民主的なのです)まだ流動的です。
日本が「何の国民の承認も得ずに」600億ドルを勝手にIMFに出せるのは、外為資金特別会計という「国民のチェックが全く働かない壮大なブラックボックス」を使うからです。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/04/post-4be2.html
議会の決議こそが民主主義の手続きである。
日本の戦争だってその予算執行は議会を経て行われたのだから、責任は民主主義の手続きからすれば国民にあるのと同じ。米国のブッシュ政権下で米国民主党がイラク戦争にいろいろ反対意見は述べたが戦争の予算は通したのとも同じことだ。
それにしても、本来私的セクターの所有権の問題を、国家の問題に格上げしたいのである。その感覚というのは、私的セクターの所有権が尊重される民主主義国ではなく、まるで共産党支配の中国みたいだな。
http://hi-sekoshin.com/enron/
なにこれw
http://d.hatena.ne.jp/servitors/20120418/p1
「ルルイエの館にて 死せるクトゥルーは夢見るままに待ちいたり(ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん:Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn.)」
「CAST IN THE NAME OF GOD, YE NOT GUILTY. (我、神の名においてこれを鋳造する。汝ら罪なし」
まず私達が自己啓発書を読む目的はただひとつ。
今の時代に上手く適応できずに悩んでいる人が「鬱にならないため」に読むもの。
鬱にならないため、といっても使い方は大きく2つに分かれる。
1つめ。無知ゆえの不安を解消する。
今の時代がどうなってるかよくわからないし、自分自身どういう人間になりたいか全く決まってないという人は、「今の時代の人間が、今の時代ってこうなんだよって書いてる系の自己啓発書」を読めばいいと思う。自分が社会にどう適応していくか考えるヒントになると思う。
いわゆるハウツーもので「そもそも何に悩んだらいいのかわかりません」「どこから行動すればいいか、なにから手をつけていいかもわかりません」という段階なら必要だと思う。私はこの手の本は全く読む気がありません。
2つめ。自己無力感や、無意味感を克服して、自分の人生に意味を見出す。
「ある程度自分で考えて、世の中も知って、努力や行動もして、でもうまくいかない」というより根深い問題を抱えてる人。 今の社会がどういうところかわかってきたけれど、どうしても適応できない。受け入れられない。「今の時代はおかしい。でも今の時代しか知らないから、他にどう生きたらいいかわからない」と思って苦しい時に、他の時代の立派な人の生き方を学ぶことで、新しい生き方や考え方を模索する、という感じ。 袋小路に出口を見出す感じですかね。読むとしたらこっちかな、と。
ただし、こちらはどうしても極めて宗教的・スピリチュアルな話(神の意志とか真理の存在を仮構することが多い)が絡んでくるので、ある程度取捨選択が出来ない人がいきなり手を出すと危険。
しかし、時間がある人ならば、小説や歴史(マンガやラノベでもある程度は可能?)から自分の理想とする生き方を学ぶのがよい。さらには、実際に現実で強く生きている人の側について、経験から学ぶことが出来ればさらにいい。結局のところ、1つめと2つめは、「今まで真面目に考えたり勉強して来なかった人が急いでその穴を埋めるため」のものでしかない。そう思います。 私自身、情けないけれど今までろくに人生の意味とか社会について学んで来なかったからこそ、こういう努力をシないといけない。
一番ダメなのは、テレビ。次に親のいうことをうのみにすること。この2つは死亡フラグ。
そういう意味で今注目してるのは2つ目に属する「プラグマティズムの作法」
◆http://rashita.net/blog/?p=7817
「勝利を掴むための手段」がいつの間にか「目的」へとすり替わってしまうような現象=「目的の転移」が日本の閉塞感を生み出す原因になっている。「人間、何をやるにしても、それが一体何の目的や意味があるのかを、見失わないようにしましょう」
常にどこかで不安を覚えながらも朧気にでも何とか全体の知識構造をイメージしつつ、それによって自らの仕事の意義を自分なりに理解しながら、その仕事に勤しむ、という作業
作法1 「何事に取り組むにしても、その取り組みには一体どういう目的があるのかをいつも見失わないようにする」
作法2「真面目」じゃなくてもよいが、「真剣」であることは必要だ。「当事者たれ!」と誰かに言うのではなく、まず自分自身が当事者であることを選択する。その結果として広がっていくものに期待する。
プラグマティズムって「実用主義、道具主義、実際主義、行為主義」あたりの日本語訳の語感で誤解されてる面があると思うけれど、実際は鬱にならないため、自分のやってることの意味を見失わないため、みたいなところがスタート地点なので、現代日本で見直されるべきだと思うんですよね。
ただでさえ今って、時代の変換点です。過渡期です。 いろんな選択肢があって、どの選択をとっても成果が出るまで時間が掛かる。現実はこっちなんです。根気強く一つのことに取り組んで、地道に経験を積み重ねてレベルアップしていく人間しか生き残れない厳しい時代です。
にも関わらず、世間は特にマスの視点はその現実を無視している。世間の物の見方は、昔ながらの評価尺度だったりする。つまり、結果しか見ない。しかも短期的視野しか持たないから、まだ取り組み途中で成果がでないものには、はやばやと評価を出してしまう。だから、パッとお手軽にできて、パッと良い結果が出るもの以外はダメだとか、やっても無駄だという風潮になっている。ビジネスの利益中心的なものの見方と、消費者の短期的で我慢弱く、相手の事情を考えない極めて視野の狭い考えが悪魔合体して、非現実的なフィルターでものごとを見て語られるようになってるんですね。社会全体が「焼畑農業」化している。
世間では「普通であること」「地道な努力」「長期的な視野で物事を考えること」を笑いものにしたり、攻撃する雰囲気が強くなっている。しかし、それは「圧倒的に優れた生き方」以外が否定されるわけで、生き方の多様性を狭めてしまう間違った物の見方なわけです。そういうバカのものの見方が蔓延していると、お笑いや橋下徹さん、ノマドみたいな「特別な生き方をしている人」が人気が出るのだけれど、これは多くの人間を焼き払って一部の人間だけが笑う構造なんですよ。 これはもう、1920年代のアメリカの歴史を見てたらわかる。そっくりそのまんま歴史が繰り返してるかのような雰囲気。実際、この自体、神経症になる人がとても多かったそうです。
で、いまさらこういう現在の構造について文句を言ってもしょうがないにしても、今の世の中の風潮とか、それが押し付けてくる物の見方が間違いであることは理解しておかない。世の中は絶えず、自分の生き方を否定するようなことをいってくる。一部の人間にしか叶えられない、宝くじのような夢を語って、それを目指さない人間はダサくて愚かだと、そんな風に自分のやってることを笑いものにしてくる。ただでさえ正解が分からない時代だから、じぶんのやってることに迷いが出てきてしまう。自分の人生に意味が感じられなくなってしまう。鬱になったりいろいろ辛い気分になる。
そうならないためのヒントとして、プラグマティズムってアリだと思うんですよね。
私も入門書読んだレベルでしかないので、一度じっくり勉強してみたいと思う分野であります。
今の時代に上手く適応できずに悩んでいる人が「鬱にならないため」に読むもの。
鬱にならないため、といっても使い方は大きく2つに分かれる。
1つめ。無知ゆえの不安を解消する。
今の時代がどうなってるかよくわからないし、自分自身どういう人間になりたいか全く決まってないという人は、「今の時代の人間が、今の時代ってこうなんだよって書いてる系の自己啓発書」を読めばいいと思う。自分が社会にどう適応していくか考えるヒントになると思う。
いわゆるハウツーもので「そもそも何に悩んだらいいのかわかりません」「どこから行動すればいいか、なにから手をつけていいかもわかりません」という段階なら必要だと思う。私はこの手の本は全く読む気がありません。
2つめ。自己無力感や、無意味感を克服して、自分の人生に意味を見出す。
「ある程度自分で考えて、世の中も知って、努力や行動もして、でもうまくいかない」というより根深い問題を抱えてる人。 今の社会がどういうところかわかってきたけれど、どうしても適応できない。受け入れられない。「今の時代はおかしい。でも今の時代しか知らないから、他にどう生きたらいいかわからない」と思って苦しい時に、他の時代の立派な人の生き方を学ぶことで、新しい生き方や考え方を模索する、という感じ。 袋小路に出口を見出す感じですかね。読むとしたらこっちかな、と。
ただし、こちらはどうしても極めて宗教的・スピリチュアルな話(神の意志とか真理の存在を仮構することが多い)が絡んでくるので、ある程度取捨選択が出来ない人がいきなり手を出すと危険。
しかし、時間がある人ならば、小説や歴史(マンガやラノベでもある程度は可能?)から自分の理想とする生き方を学ぶのがよい。さらには、実際に現実で強く生きている人の側について、経験から学ぶことが出来ればさらにいい。結局のところ、1つめと2つめは、「今まで真面目に考えたり勉強して来なかった人が急いでその穴を埋めるため」のものでしかない。そう思います。 私自身、情けないけれど今までろくに人生の意味とか社会について学んで来なかったからこそ、こういう努力をシないといけない。
一番ダメなのは、テレビ。次に親のいうことをうのみにすること。この2つは死亡フラグ。
そういう意味で今注目してるのは2つ目に属する「プラグマティズムの作法」
◆http://rashita.net/blog/?p=7817
「勝利を掴むための手段」がいつの間にか「目的」へとすり替わってしまうような現象=「目的の転移」が日本の閉塞感を生み出す原因になっている。「人間、何をやるにしても、それが一体何の目的や意味があるのかを、見失わないようにしましょう」
常にどこかで不安を覚えながらも朧気にでも何とか全体の知識構造をイメージしつつ、それによって自らの仕事の意義を自分なりに理解しながら、その仕事に勤しむ、という作業
作法1 「何事に取り組むにしても、その取り組みには一体どういう目的があるのかをいつも見失わないようにする」
作法2「真面目」じゃなくてもよいが、「真剣」であることは必要だ。「当事者たれ!」と誰かに言うのではなく、まず自分自身が当事者であることを選択する。その結果として広がっていくものに期待する。
プラグマティズムって「実用主義、道具主義、実際主義、行為主義」あたりの日本語訳の語感で誤解されてる面があると思うけれど、実際は鬱にならないため、自分のやってることの意味を見失わないため、みたいなところがスタート地点なので、現代日本で見直されるべきだと思うんですよね。
ただでさえ今って、時代の変換点です。過渡期です。 いろんな選択肢があって、どの選択をとっても成果が出るまで時間が掛かる。現実はこっちなんです。根気強く一つのことに取り組んで、地道に経験を積み重ねてレベルアップしていく人間しか生き残れない厳しい時代です。
にも関わらず、世間は特にマスの視点はその現実を無視している。世間の物の見方は、昔ながらの評価尺度だったりする。つまり、結果しか見ない。しかも短期的視野しか持たないから、まだ取り組み途中で成果がでないものには、はやばやと評価を出してしまう。だから、パッとお手軽にできて、パッと良い結果が出るもの以外はダメだとか、やっても無駄だという風潮になっている。ビジネスの利益中心的なものの見方と、消費者の短期的で我慢弱く、相手の事情を考えない極めて視野の狭い考えが悪魔合体して、非現実的なフィルターでものごとを見て語られるようになってるんですね。社会全体が「焼畑農業」化している。
世間では「普通であること」「地道な努力」「長期的な視野で物事を考えること」を笑いものにしたり、攻撃する雰囲気が強くなっている。しかし、それは「圧倒的に優れた生き方」以外が否定されるわけで、生き方の多様性を狭めてしまう間違った物の見方なわけです。そういうバカのものの見方が蔓延していると、お笑いや橋下徹さん、ノマドみたいな「特別な生き方をしている人」が人気が出るのだけれど、これは多くの人間を焼き払って一部の人間だけが笑う構造なんですよ。 これはもう、1920年代のアメリカの歴史を見てたらわかる。そっくりそのまんま歴史が繰り返してるかのような雰囲気。実際、この自体、神経症になる人がとても多かったそうです。
で、いまさらこういう現在の構造について文句を言ってもしょうがないにしても、今の世の中の風潮とか、それが押し付けてくる物の見方が間違いであることは理解しておかない。世の中は絶えず、自分の生き方を否定するようなことをいってくる。一部の人間にしか叶えられない、宝くじのような夢を語って、それを目指さない人間はダサくて愚かだと、そんな風に自分のやってることを笑いものにしてくる。ただでさえ正解が分からない時代だから、じぶんのやってることに迷いが出てきてしまう。自分の人生に意味が感じられなくなってしまう。鬱になったりいろいろ辛い気分になる。
そうならないためのヒントとして、プラグマティズムってアリだと思うんですよね。
私も入門書読んだレベルでしかないので、一度じっくり勉強してみたいと思う分野であります。
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-583.html
の記事に刺激を受けたので自分の伸ばしたいことを記録するようにしようと思う。明日から。
ライフログって、いろんな人の話を聞いて効果があるのは わかっているけれど
正直かなり恥ずかしいのでまずは当り障りのないところから。
まずはベタだけれど、毎日の「過去ログ」カテゴリの記事について
・筋トレ
・英語
・DDR
・会計の勉強
・読んだ漫画
について記録していく。1ヶ月に1回、「今月の記録」という形で点検もしていこう。
調子が出てきたら、より個人的なことについても書くかもしれない。
ここまでいくとパーソナリティや性癖の暴露に近いので、
自分に全く自信がない今は、そこまで日常をさらけ出すことに抵抗がある。
多分そこまでいくには1年以上かかるだろう。
の記事に刺激を受けたので自分の伸ばしたいことを記録するようにしようと思う。明日から。
ライフログって、いろんな人の話を聞いて効果があるのは わかっているけれど
正直かなり恥ずかしいのでまずは当り障りのないところから。
まずはベタだけれど、毎日の「過去ログ」カテゴリの記事について
・筋トレ
・英語
・DDR
・会計の勉強
・読んだ漫画
について記録していく。1ヶ月に1回、「今月の記録」という形で点検もしていこう。
調子が出てきたら、より個人的なことについても書くかもしれない。
ここまでいくとパーソナリティや性癖の暴露に近いので、
自分に全く自信がない今は、そこまで日常をさらけ出すことに抵抗がある。
多分そこまでいくには1年以上かかるだろう。
