娘はもう少し小さいとき
私のことをスーパーお母さんだと思っていたそうです。
娘本人からきいたのではなく
今年1月にゲリーボーネルさんから聞いたのですが
あなたのこと「なんでもできるスーパーお母さん」だとお嬢さんは思っています
と言われた時は
こりゃえらいこっちゃ、とかなり反省しました。
なんでこのプライベートなことを明かしたかというと
私はなんでもできるわけじゃないし
人に言いたくないヒミツめいたこともあるし
人間として普通のことは私も同じだし(食べて、寝て、愚痴って、歌って、笑って、排泄して、、、その繰り返しということね)
それを
なんでもできるスーパーお母さん
と見つめていた娘に
私はいったい自分の何をみせているのだろう、ということでした。
すぐにできても、できなくてもだいじょうぶなんだよ、
子どもたち、家族、友人たちが存在してくれてどれだけ満たされていることか、
あなたはステキ♪
そんなことを充分伝えてきていなかったのだ、
どうしたらいいだろうか、この先、
そんなふうに考えてしまったくらいです。
かといって大逆転ということは子育てにはほとんどないので
地道な表現の積み重ねとじぶん点検の繰り返しです。
むずかしいけれど
母であるということの特別大付録でもあるような。
こども時間によりそうことで
私自身が癒されていき
何が大切か
より、
何を大切にしたいのか
自分の胸のうちをみていくことで
じぶんという存在を認めていく
その繰り返し。
子どもは皆、承認と重荷にならない愛の包まれていたい、
そして私たちはみな、大きな子ども。
のぞんでいるものはきっと似ている色で音で匂いだとも思うのです。