以下は東京新聞系地方紙の2013年8月14日夕刊に掲載された作家の林真理子氏と社会学者の古市憲寿氏の対談「本音の若者論」からの引用です。


林真理子「今、地元志向すごいですよね。
みんな地元の大学でいいって言う。
コミュニティーから出ることへの恐怖感があるんじゃないかな。」
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古市憲寿「がむしゃらに頑張ってみたところでなかなか報われないんだったら、ゆるく生きようと思っちゃうのが自然かなって。」

林「でも、志を低く持ってぐちゃぐちゃ生きるより、すごく努力して、それが破れてしまっても、精神が成長すると思うんですね。
野心って、精神の冒険の旅じゃないですか。
みんなも冒険に出て、嵐にも遭えば、成長すると思う。」
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林「...若い人が「ガツガツしたくない」「みっともないことしたくない」って言うんだけど、若いときのプライドなんて大したもんじゃない。
どんどん恥かいてもいいんですよ。」

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何かをしたいと思った時、チャレンジし成功すればそれはそれでよいけれど、もし失敗しても何がしかの成長が期待されるだろうということですね。

やりたいことを見いだして挑戦してみるとよいということは、若者に対してのみならず、中年、高年者にも言えることですよね。

ナチスの強制収容所を生き延びた精神科医フランクルがそこでの体験を元に書いた著書「夜と霧」は20歳代の頃買いました。
完読したかは定かではありませんが...。

今日、NHKオンデマンドの「100分de名著」にアクセスした時、たまたま「夜と霧」第2回が目につき、「どんな人生にも意味がある」とのサブタイトルに惹かれて内容を見てみました。

以下は、番組内で紹介された「夜と霧」内のフランクルの言葉や解説者の明治大学教授、諸富祥彦氏の解説です。


「どんな状況でも自分の本分を尽くす。そこに“生きる意味”があるのだ」(番組案内文より)

「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。」

「あなたがどんなに人生に絶望していても、人生があなたに絶望することは決してない。
何かがあなたを待っている。
誰かがあなたを待っている。」

「私たちは日々人生を問う。...こんな人生にいったい何の意味があるのだと。しかし、私たちが人生を問う前に、人生が私たちを問うている。」

「人生に何かを求める姿勢を続けている間は、永遠の欲求不満の状態になってしまう。
人生を疑う前に、まず自分にどんな問いが突きつけられているのか、こちらが先だ。
誰かのために、世界のために、あなたにできることは何があるのだろう、何があなたを待っているのだろうと見方を変えてみませんか。」

「あなたの内側を見つめるのはやめましょう。
あなたを待っている何かに目を向けなさい。」(フランクルの他の著書での言葉より)

「どんな人のどんな人生にも見えない使命、見えないミッションが与えられている。
それを見つけて果たすことにより、初めて人生は全うされる。」

                                                                              (以上 引用終わり)
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自分の人生の意味あるいは生き甲斐を考える時、自分が世の中に寄与できるのは何を通じてであろうかという思いが私自身の頭の中を去来していました。

自分にとって可能だと思える仕事の中で、あの仕事が今後自分を最も生かせる仕事だろうな~という思いを抱いたりしていました。
そんな時、出会ったこれらの言葉でした。

自分に期待されているものを見つけ、それを達成すべく頑張ってみる...そう考えることで、絶望的なナチスの強制収容所で自殺を考えた人達が生きる希望を見いだしたとのことです。
その人を待っている何かとは、ある親にとっては、帰りを待っている愛する子どもであり、ある科学者にとっては、書き上げていない科学書を書き上げることだったとのことです。

いろんな立場の人々に通じる含蓄ある考え方だと思いました。



東山紀之演ずる「七つの会議」と堺雅人の銀行員ドラマ「半沢直樹」にそっくりのところがあって混線してしまいそうだった。急な監査に備え、見られたら困る書類を隠すためダンボール箱に入れ守衛所のロッカーや課長の自宅に運び込むところ。「七つの会議」はリコール隠しを告発するところに救われた。
8/4 8:13

昨日8月3日のBS朝日の「激論」に浜矩子さんが出演。「浜矩子氏が斬るアベノミクス批判」。田原総一朗氏司会でメインスピーカーは彼女ひとり。50分近く浜さんの考えを聴けて良かった。公共事業等による成長ではなく、分配の見直しによる成長を主張しており、その内容をもっと知りたく思った。
8/4 8:34

参議院選挙が始まりました。日本国憲法改正の国会議員による発議要件をなぜ過半数にまで下げてはいけないのかを、東京大学の長谷部教授の論説文(2013年7月5日、東京新聞系地方紙朝刊より)が明快に語ってくれていますので、少し長くなりますが以下に引用します。

「憲法96条では、憲法改正の発議に衆参両院の3分の2の多数決が必要だとされている。
なぜ、3分の2の特別多数決が要求されているか、おさらいをしておこう。
日本国憲法は立憲主義を基底とする。
人の世界観・人生観はさまざまである。
多様な見解や立場の個人をそれぞれ尊重しつつ、社会生活の便宜がすべての人に公平に行き渡ることを目指すのが立憲主義である。」

「憲法は、世の中にはさまざまな意見や立場の人がいるという前提に立っている。
そうである以上、できるだけ幅の広いコンセンサスに支えられる改正提案であってはじめて、長く遵守すべき、安定した社会の基本原則として憲法に取り入れることが可能となる。
単純多数決による発議を許すと、その時々の政治的多数派による党派色の強い改正提案がなされる可能性が高くなる。
それでは、日常政治での多数派ー少数派の転変から距離を置いた、長期的に守られるべき基本原則という憲法の性格が破壊される。
特定の党派の人々にとっては善い原則であっても、他の人々にとっては自分たちの世界観や人生観を否定する、アンフェアな憲法になりかねない。
3分の2という特別多数が改正の発議に要求されるのは、このためである。」

「国民投票で結論を出すのだから、国会の発議は単純過半数で構わないではないか、と反論する人もいる。
これは単純にすぎる議論である。
憲法は、まだ生まれていない将来世代を含めた長期にわたる国益を左右する社会の基本原則である。
たとえて言うなら、子や孫の代まで運用し続けてやっと投資の善しあしが分かる金融商品のようなものである。
リスクの有無はともかく、本人であるあなたが今決めるのだから、どんどん提案させてください、というわけにはいかない。」

「長期の国益に関わる基本原則を変えようというのであるから、国会でじっくり審議をし、長期にわたるコミットをしても安全だとだいたいの人が考える改正案であってはじめて、国民に対して承認を求める発議をすべきだということになる。
現在の有権者が多数決で決めるのだからそれでいいはずだ。
主権者の自己責任だからどんどん提案すればよいというのは、長期的に運用される金融商品のリスクを度外視して、次々と売り込みをかけるのと同じ危なっかしい議論である。」

「注意を要するのは、憲法は「国民」ということばを二つの異なる意味で使っていることである。
憲法改正の国民投票をしたり、最高裁裁判官の国民審査をしたりする国民は、「現時点での有権者団」という意味での国民である。
他方、憲法前文で「この憲法を確定する」とされている国民や、国政を政府に信託しその福利を享受する国民は、「将来世代を含めて永続する団体とそのメンバー」という意味での国民である。
現時点での有権者団の判断が、永続する団体としての国民の利益に関する正しい結論と一致するとは限らない。
うっかりした答えを有権者団が出さないために、両者の一致を図るために国会での慎重な審議を要求している。
国会の発議と国民投票とは適切な改正に導くための連続した一つのプロセスであり、二つに切り離して考えてはならない。」


「...憲法を軽く扱えば憲法自体も軽くなる。
政治的多数派が交代するたびに変わってしまう、もはや憲法と言えないような軽いペラペラの憲法が良いのであれば、憲法を軽く扱うべきだろう。
しかし、どっしりと重みのある、いざというとき頼りになる憲法が良いのであれば、憲法を軽々しく扱うのはやめるべきだろう。」

(以上で引用終わり)
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憲法96条が改正され、改憲発議のハードルが下げられると、9条の改正、軍隊の保持、基本的人権の制限、そしてやがて隣国韓国のように徴兵制の実施へと進む可能性も出てくるのではないかと危惧します。

96条の憲法改正発議要件を「過半数」に改めると公約で明示しているのが、「自民党」と「維新の会」。
「公明党」は、「公約では”厳格な改正手続きを維持”と慎重だが、”96条改正は改正の内容とともに議論するのがふさわしい”とも記した」(朝日新聞2013年7月5日朝刊)とあり、96条改正に反対とは言い切らず、賛成もありうる立場にみえます。
「みんなの党」も発議要件の緩和を掲げ、改正に前向き。

「民主党」「共産党」「社民党」「生活」「みどりの風」「新党大地」は96条の先行改正に反対です。
(朝日新聞2013年7月5日朝刊より)

世の関心の多くが景気が良くなるかどうかに向いているきらいがありますが、今回の参議院選挙で憲法96条改正賛成派が2/3を超すと、まがりなりにも民主主義を謳歌してきた日本が、思想の自由のますますの制限(今でも、気に入らない政治的主張の新聞投稿に対して嫌がらせ脅しが生じているとのこと)、既に米国から批判されているように右傾化の進展、子どもを戦場に送らざるを得ない国へと大きく変貌していく第一歩になるのではないかと危惧します。

景気やアベノミクスの是非だけではなく、日本の将来が大きく変わりうる重大な分岐点に立っていることを認識して投票に臨みたいものです。

      (メールアドレス: green77sun-elect@yahoo.co.jp)


「つきあってから最初の半年ぐらいは、アディクション(中毒)だと思う。...
お互いを知りたくて、セックスに夢中だったり。...
その時期が終わると、若い頃なら「飽きちゃった」とか「どうすんの?」となっただろうけど、年をとってきて知恵もついたら、この関係をきちんとまっとうしたい。
そうなると「ここからまた楽しいことを作れる」というふうに考えるんだよね。

セックスというのは必ずしも肉体だけのことでもないんだし。
広義では、ただ触れあっているだけでもセックスだよ。
だから私は、肉体って触れあってないとダメだと思っている。
寝床を別にしたらダメ。
ずうっと手を握りながら寝なきゃ。....
セックスは飽きるけれど、触って飽きない関係はある。
結婚していて、触るのに飽きたら、もう別れるべきだと思うの。」

「挿入するとかしないとかじゃなくて、馴染んだ男の人が毛布みたいになってて、足からませて寝たりする、私はそれこそが癒しだと思うんだけど。
安心だよ。
それでもセックスがそんなにしたいんだったら、自分ですればいいんじゃないかな。
家庭壊してまで外でやる必要ないと思うし、火がついてどうしようもないときは、ちゃんと相手に言うか自分で処理するかすればいい。」
  (山田詠美、「人生相談劇場 特別篇」、婦人公論 2013年6/22号より)


知り合ってしばらくのセックスに夢中になる時期を過ぎた後、スキンシップで癒される関係に移行できることが大切....その触れあう関係を無くしたら、結婚生活での繋がりは崩壊してしまうという考えですよね。
足をからませたり、手を握ったりするスキンシップが夫婦関係にとても大切だということは、私もそうだと思います。

スキンシップの大切さは、他のところでも触れています(http://blog.goo.ne.jp/k2000k12/arcv、2011/4/9の白石一文氏、2011/7/3の渡辺淳一氏の著作についてのもの)。

寝床を別にしたらダメってことも同感です。
別室はスキンシップのチャンスを大きく損なうので問題多いと思いますし、ツインベットも互いの間にスキンシップを遮る距離があって、夫婦の自然な触れ合いを妨げている気がします。
(そういえば、NHKドラマ10の「第二楽章」の板谷由夏と谷原章介演じる夫婦も、長く夫婦関係が現役ではないといった風の台詞がありましたが、二人はツインベットに寝ていましたね。)

和室に布団をくっつけて2つ敷くというのはとてもいいと思います。
ちょっとずれれば、相手に触れたりくっついたりできますし 、離れて熟睡することもできますから (^^)。


「今では当たり前に思える(文化の)多様性や寛容さ、民主的な価値観が、どれほどもろく、それゆえ死守すべきものなのかを知っていただきたい」
  (ドイツ歴史博物館館長アレクサンダー・コッホ氏の言葉。朝日新聞2013/5/26、冨永格「日曜に想う」より)

多彩な市民文化が花開いていたワイマール共和政下の欧州きっての都市ベルリンが、ナチス党の天下でいかに灰色になり果てたかが史料により展示されているそうだ。
この当時世界恐慌で失業者があふれており、ナチス党は国政への挑戦からわずか5年で政権奪取したという。

今、日本の国の憲法を容易に変えられるよう国会による改正の発議を現在の2/3以上の多数から過半数の多数に変えようという動きが勢いを増している。

これは危ない。

今の憲法は「人々の人権が、時の政治権力によって侵害されることのないよう、憲法の条文によって権力に縛りをかけようという思想、立憲主義」に立っている。
「日本でも、明治政府以来、この立憲主義の思想に基づいて憲法を制定し、権力による人権侵害の危険に歯止めを掛けてきた。
このため、全ての権力者は、自らの活動が憲法に反していないか、人権を侵害していないか、ということに常に気を配る必要がある。」
   (2013/5/25、朝日新聞WebRonza、木村草太「憲法96条改正はなぜ問題外なのか?---三つの疑問」より)

「 このように、憲法は国の重要な基本原理を定めたものであるから、軽々しく変更するのは好ましくない。
時代が変化して、人々の人権をより十分に保障するためにルールを修正する必要が生じるにしても、党派を超えた十分な議論を経て、広範な合意を得られなければ、変更すべきではない。
 真に必要な変更であれば、議論により合意が得られるはずである。
仮に合意が得られないのだとすれば、その修正の提案は、「みんなの利益」という甘言で表面を覆いつつも、その中身は党派的な提案である可能性が高い。」
   (同上、木村草太氏記事より)

今は日本で当然のごとく享受している基本的人権の数々も、国民が注意深く守る意識を持たないと、権力者に都合の良い方向に憲法の改正が行われ、人権侵害が起こりかねないと心配になります。

「歴史に照らせば、大衆のうっぷんはあらぬ体制を生み、その序曲はしばしば(ナチス同様)通りから鳴り渡る。
街角に飛び交う憎悪を見過ごせない理由が、ここにある。
強く正しく、しかも優しい国は、たゆまぬ自省からしか生まれない。」
   (同上、冨永格氏「日曜に想う」より)


「チャレンジした方が人生は楽しいからね」

これは80歳でエベレスト登頂を成し遂げた三浦雄一郎さんの快挙に対する堀江兼一さん(海洋冒険家)の言葉です(2013年5月24日朝日新聞朝刊より)。

同感です。
80歳でエベレスト登頂なんてだいそれたことでなくても、自分の仕事でも趣味でも何でもいいから、やりとげたいな~と思うことに対してチャレンジするのって本当楽しいと思う。

そう言えば「胸にたぎる情熱のある限り青春です」って、さきほどNHKソウル白熱教室のキム・ナンド教授が言っていました。

「小さな努力でも、熱意を持って、真面目に長い間積み重ねると、こんなにすごいこともできるんだ。改めてそう教えられた」
これも三浦雄一郎さんの快挙に対する74歳の女性登山家、渡辺玉枝さんの言葉です(同上朝日新聞より)。
(この女性の方も73歳でエベレスト登頂したんですね。これも驚きですが..)

かなり難しいかなと思う目標でも、80歳で8848メートルの氷河に閉ざされた山頂に登るよりは実行可能に思えてきます。

何事であれ目標達成に大事なのは、平凡だけど、小さな努力でも長い間熱意を持って積み重ねることなんだな~と改めて思いました。


やってしまった (^^;)。
出張中の空いた午後、長らく話をしていない知人を訪ね夕食を共にしました。
当然の如くお酒が入り楽しい会話の後帰路へ。

郊外から都心に向かう電車に乗車しウトウト(いやぐっすり!笑)。
気がついたら、降りる予定の駅から遥かに離れた終点のO駅! 
戻りの電車は終了泣き顔
やむなくタクシーでホテルまで乗車。
5000円でした泣き顔

反省点。
ほろ酔いで電車に乗るときは、振動で気づかせてくれるよう、降車予想時刻か終電の30分位前に携帯電話のアラームをセットしておくこと
出かける前あるいは約束をした時点でアラームをセットしておくのが良いかも

あと2日で車が手に入る

長く、代車で過ごしてきたから、時間をかけて選んだ車が自分のものになるのってうれしいものだ。

まるで、恋人が手に入るが如き気持ちかな(笑)。

 

ぼくが居るところは車社会で、数百キロ以上になるとJRや飛行機を使うが、それ以下ならコンビニに行くにも、本屋に行くにも、スーパーに行くにも車を使う。

だから車がとても身近に感じるのでしょうね。

 

車が定まらないと、心落ち着かないところがあったけど、これで気持ちも落ち着いて、次なる課題にとりくめる(笑)。

 

まさに人生と言うとちょっと大げさだけど、日々の生活のパートナーですね。

 

大事にしよう!

そして、事故を起こして、車を壊すことのないように心しよう... (^^)