科学にかかわる仕事をしているので、

知識と同時に生じてしまう偏見や、先入観と、

経験則の正しい利用とを、切り分けることに日々苦労している。

                                       popoのパンのライ麦ブドウパン


例えば、ラザフォード散乱という実験手法によって、

それまでブドウパンのようにマイナス(ブドウ)がプラス(パン)部分に

均等に散らばっていると思われていた原子の構造は、

電子雲の希薄な部分と、原子核(通り抜けられない)の部分とに

分かれているという原子の構造が解明されたそうだ。

葛饅頭で葛(電子雲)の中の餡子(原子核)が

極端に小さいような感じの構造ね。

                  御菓子処大二郎の葛饅頭

 

かかわった研究者たち(学生も)が、8000回に一回程度の割合で、

原子を突き抜けられない(手前側に跳ね返ってくる)アルファ線の挙動を、

実験エラーやノイズだとは考えずに、注意深く観察した結果だという。

 

自分だったら、その確率(0.01%)のデータに注目できただろうか、

それまでのブドウパンモデルに縛られた先入観を持ち、

エラーとして無視してしまうのではないだろうか――

と、研究姿勢をキープするための格言(?)としている。

 

こと仕事に関しては自分を律しているつもりの私でも、

ダイバーシティ推進イベントで知った

アンコンシャスバイアステストを受けると、

自分もいろんなポイントで偏見を持っていることに気づく。

   自分には偏見がないと主張する人は多いが、テストで偏見が出ないことはほぼ皆無で、

   バイアス(偏見)無しと現れるのは、むしろ作為的な回答をした場合だそうだ。

   その作為が、普段から自分を律することにつながっているのであればよいが、

   偏見のない人間はおらず、「偏見を持っていることを認められない」のが問題であり、

   普段から「自分がニュートラルではないことを意識しておくことが大切」である、

   と認識するためのテストである。

 

けいあゆさんが「知識と偏見」に関するブログを書いてらして、

それは重厚で繊細なガラスに見えるけれど、軽いアクリルの皿だったり

境内のキッチンワゴンで購入した珈琲を持って入れる両足院と、

外国人画家による龍の天井画だったり、と、芸術系の話なのだが、

細かな偏見は私にもたくさんあるなあ、と再認識した。

まず「京都の寺院が、よく中国人の天井画をOKしたな」と思ったのだが、

宗教自体、中国産だったりサウジアラビア産(←?)だったりだし、

イタリア人のミケランジェロは、ヨーロッパ中の宗教画を描いているし。

 

中国人の親友がいるにも拘らず、

私はアジア人に対して、少し偏見を持っているようだ。

それは助手募集の求人に送られてきたエントリーシートに、

経歴や論文数の詐称が含まれていることが多々あったからであって、

すべてのアジア人がそれに合致するわけでもない。

米国人名のエントリーとなると、

「何の根拠で自信満々なんだ?」と思う自己アピールはあっても、

経歴や論文リストの中の詐称はない。

アジア人はリストを再確認しなければならず、

米国人は文章を鵜呑みにしてはいけない。

 

細かく対応せずに採用することは、トラブルにつながるから、

すべて丁寧に調べることが理想とわかっていても、

それが時間的にできなければ、エントリーシートに目を通す時に、

応募国別に何を疑ってかかるかのバイアスをかける。

 

海外の大都市を歩くとき、ジプシーと思われる集団には警戒する。

どこの国でも、移民街に一人で入ったりはしない。

そこでトラブルにあえば、危機管理能力不足とみなされる。

子供が小学生の頃、障碍者が女の子を追いかけまわしたことがあり

知的障害のある人との距離感の教え方に苦労した

 

要は、偏見と警戒のバランスなんかの問題なのだけどもね、

なんだかんだで、常に考え続ける案件ではある。

 

いえ、ただ、龍の天井画はただ美しいです。