キャスティングが気に入らないものの、珍しく毎週録画して観ていた、

ゆうきまさみの漫画が原作の『白暮のクロニクル』

昨夜が最終回だった。

 

以下、盛大にネタバレします。

まあ――原作通りと言えば、原作通りのラスト(^^;

お話の初めから、強い味方、でも、わき役として出てきていた実藤さんが、

実は子供のころから、つまりは事件の発端からかかわっていて、

そのままの善良さで、罪悪感にかられながら茜丸に協力していたこと。

茜丸が、茜丸のまま、反省も後悔もせずに、警察につかまること。

夜衛管を辞めた伏木が、オキナガの暮らしやすい世界と作ること。

 

ドラマで、原作の良さが伝わったかなあ。

原作のテーマの一つは、伝わりやすいと思う。

オキナガという吸血鬼もどきの人外になって、

好きだったのに結ばれることのなかった女性の子孫が、

幸せに暮らしている様子を、眩しそうに見つめるシーン。

寿命のないものとあるものの距離感と、関わり方の説明はなかったし、

これもまた原作通りなのだが、伝わりやすかったと思う。

 

もう一つは、

茜丸が「ぼうや」と呼んで育ててきた実藤の死に、一瞬辛そうにはするものの、

殺人鬼であることを反省せず、悪のままでいること。

物語の盛り上げのために、ななめ上の改心や行動をさせる映画は多い。

プレデターが勇者をたたえること、

ジュラシックワールドでラプトルが飼い主を守るための行動をすること。

映画は盛り上がるかもしれないし、観ていて楽しいのは確かなのだが、

一瞬冷静になった時に、うんざりする。

(もちろん、B級映画的に、それを納得したうえで楽しむパターンもある)

 

人外のものは人外のまま、獣は獣のまま、宇宙人は宇宙人のまま、

映画の都合や脚本の都合で人間に寄り添わせないところが、

多くのゆうきまさみ作品の良さなのだ。

茜丸は殺人を楽しみ、反省しない。自分の快不快しか感じない。

人間のルールに巻き込まれない。

それは、人間の好みのストーリーのために、他の種族の個性を否定しない、

心の広さや敬意すら感じさせられて、「良いなあ」と思うのだが。

他人の趣味を否定しないのは、オタクのたしなみっぽくもあって、

ゆうきまさみ作品の当初のオタク好みのマニアックさとも重なって、

何とも「良いなあ……」と、再認識した。