キュスターブ=モローの描いたサロメ(部分)

 

私にとってのオスカーワオルドは、あの「サロメ」を書いた人だが、

高校時代の漫画オタクの友人たちの中では、

「ドリアングレーの肖像」「幸福の王子」や、同性愛の人として知られていた。

まあ、そっちの方が有名だよね。

当時の我々は、アニメが好きで、漫画が好きで、

コマ撮りの動画を作り、同人誌を描き、漫画論を戦わせていたりした。

ワイルドファンの私は、自動的(?)にその仲間に加わった。

 

帰国子女の強みで、Vyvyan Wilde (Holland)の著作を取り寄せて読んでいたから

彼と父親(ワイルド)との関係や、父親の姓すら隠した苦労も知っていた。

ワイルドは優男に見えるが、殴り合いの喧嘩は強かった、と、

当時明治大学教授だった西村孝次氏の解説で読んだ。

自分は同性である男が好きなのかもしれない、と、七転八倒して苦悩したという

大学時代のワイルドの逸話も、当時どこかで読んだ。

 

 ワイルドやサロメについては、何度も書いてるから、ここでは略す。

 サロメ話 満月とサロメ - 白黒つけたいシマウマ日記 (fc2.com)

 墓参り 『雨のペール・ラシェーズを散策』 by Zebraさん【フォートラベル】 (4travel.jp)

 

一方、1980年代の日本の少女漫画界は、

『風と木の詩』の竹宮恵子だの、『摩利と新吾』の木原敏江だの、

罪悪感のない(?)少年同性愛漫画が蔓延していた。

大人の性愛と少年愛を混ぜたような世界で、

多分あれが日本の”腐女子文化”のもとになったのではないかと思う。

元々の日本に、同性愛を排除する風潮もなかったようだし、

キリスト教徒の世界のように目の敵にされることもなかったのだろう。

 

一方、萩尾望都の描いた『トーマの心臓』他、寄宿学校が舞台のシリーズは、

異性に目が行く前の世代が、(性別にかかわらず)友人に抱く愛情や憧れの話で、

あの感情を抽出した漫画は、他になかったのではないかと思っている。

竹宮漫画と一緒の括りにされたとしても、

純然と差があるよなあ、と、少なくとも私は思っていた。

(一応、すべて半分くらいは読んでいる、と思う……

 この中では木原敏江が好きだったかな。世紀末的な作品も多かったし)

 

先ほど『気になってる人が男じゃなかった』という漫画を読んだ。

ああ、この感じ。

付き合いたいとか、まして性欲とかには全く関わらない、

ただ単に「好き」いわゆる「推し」を見つけたっていう感覚。

 

 

「推し」活もまた、異性とカップルになって子供産んで、

という本能からは、解放されている(逸脱している)感情だろう。

良いなあ、懐かしいなあ、と、思う。

 

動物園のライオンが狩りをしなくなったり拒食症になるように、

人間も動物も、欲求が満たされていると本能が薄らぐ。

生命の危機が少なくなり、食欲が満たされることで、

人類は次世代を作る意識が薄くなりつつあるのかもしれない。

それは少産少死となった出産効率ともリンクして、

結婚年齢が上がり、そのもととなる異性への恋愛感情も薄く、遅くなる。

 

同性に魅力を感じるのが一時的なものなのか、

ワイルドたちやk.d.langみたいな、いわゆるLGBTなのか、

その場にいる本人も、周りも初めは区別はつかないのではないかと思うが、

区別のつかない時点において、「同性の推し」っていう感情は、

ちょうどよいのではないかと思うのだ。

 

 

中学時代に、ほぼ同い年の頃にワイルドの『サロメ』を読んだから、

クラスに彼女がいたら――と、考える。

 

サロメは気が良くてグラマーで、ちょっとトロくて、

エロ教師にいやらしい目で見られているのに、本人は気付いていない。

音楽や体育は得意だけど数学が苦手で、私が何度教えても赤点を取る子だ。

「ねえねえ、転校生のヨカナーンってかっこよくね?」

「わかる、わかる、推せる~♪」

「いっぺんでいいから、あの顔にキスした~い♪」

 

ごめんオスカー(ワイルド)。

うちのクラスのサロメは死なないけど、唯美主義には程遠いわ。