人は、同じ形の者たちが異なる行動をするのを拒み、

異なる形のものが同じ行動をするのを不快に思う。

前者は長年、異教徒の排除やLGBTの排除につながっており、

後者は異人種とのわずかな差異が選民思想の根拠になったり、

レストラン等での外国人排除になっていたのではないかと思う。

 

SF作品『アンドロイドは電気羊の夢を見るかは、

フィリップ・K・ディックの作り上げた世界の整ったSF作品で、

人間と、人間と同じ形をした人間型アンドロイド(レプリカント)との話だ。

レプリカントは環境の悪い辺境で激務につかされ、使い捨てにされる。

レプリカントは感情を持たず、計算で行動をする。本来であれば人間に反逆しない。

人間側も(選民思想云々ではなく)人間たちの安全と利益のために、

レプリカントを短命に設定し、反逆すれば処分 ”retired” する。

そんな中で、人間と類似の感情を持つレプリカントが逃亡し、

それをブレードランナーが追う――

 

 

1982年の映画『ブレードランナーは、原作よりも湿っぽく作りこまれている。

原作にもなくはないが、ハリソンフォード演じるデッカードと

レプリカントのレイチェルの、恋物語みたいになっていた気がする。

原作でも私は感情を見せないレプリカントがかわいそうで仕方なかったが、

その一方で原作には、日本の影響が強く出た歓楽街や、宙に浮かぶネオン、

スラム街にもかかわらず未来イメージ満載の映画の世界観は作りこまれておらず、

ビジュアルな(情景の想像しやすい)小説ではなかった。

 

映画『ブレードランナー』は、原作のイメージを借りた別作品と考えてよいと思う。

そもそも、原作において重要なヒツジや蜘蛛は出てこないし。

長寿命にするとレプリカントに感情が生まれてしまうから、

寿命を4年にセットされていた、という設定も原作にあっただろうか?

それに、ルドガーハウアーはのちに何を見てもレプリカントとしか思わないくらい、

感情を表に出さない完璧なレプリカント風貌と動作だった。

なのに、深く悲しんでいる様子が伝わってくるのは、

演出(プリスとキスをするところなど)が素晴らしいのだと思う。

人間らしく振舞おうとしているだけなのか、「心」の衝動なのか不明だったものが、

死ぬ直前に急激に逆転し、雨に濡れながらデッカードと話すシーンでは、

もうデッカードが敵に見えるくらいだ。

そういうわけで、ぜひぜひおすすめの映画なのだ。

 

そして2007年の『ブレードランナーファイナルカット

初公開から25年を迎え、リドリー・スコット監督自らが再編集と

デジタル修正を施してよみがえらせたファイナルカット版だという。

……偉くわかりやすい映画になったな、と思って観た。

ブレードランナーの映画を覚えているからというのもあるかもしれないが、

さりげなく、きちんと説明が施されていて、恋愛要素がより追加され、

1980年代のわかりにくいSFが流行した時代との違いを感じた。

ブレードランナーの「そもそもデッカードもレプリカントなんじゃねえの?」

という問題は、多分映画人が作りこんだ、この映画のテーマでもあると思う。

原作にも、レプリカントは人より記憶力が良く計算高く同じ素材(?)でできていて

ただ感情や共感力がないのが特徴とされていたが、

彼らに感情が生じて(ひどい目に合わせる)主人を殺して時点で、

人間との差はなくなったのでは? みたいな問いかけはあったと思う。

それをより明確な問いにしているのだ思う。

そして原作のデッカードにレプリカントの疑いはなかったと思う。

(本人が悩むシーンはあるが)

 

それにしても、元作品とファイナルカットをくらべると、

これだけ使わなかったシーンがたくさんあったんだな、と、衝撃を受ける。

 

折り紙、いっぱい撮影されていたのだね。

 

 

さて、2017年に作られた続編『ブレードランナー2049

相変わらず、歓楽街にハングルや日本語が飛び交っている。

こちらのブレードランナーKは新型のレプリカントであることがはっきりしていて、

新型レプリカントが、逃げ出し生き(?)残っている旧型レプリカントを狩る形だ。

冒頭から前半、何故こんなありきたりなSF映画にしのかと思って観ていたが、

後半にそれは大きくひっくり返される。

Kはロス市警の仕事でデッカードとレイチェルから生まれた子供を探している。

レプリカントの生殖機能は、人類至上主義の人間にとっては脅威となるからだ。

一方、レプリカントたちは成人の形で生まれるため、子供の記憶はないはずだが、

Kには子供の頃の記憶があり、自分こそがレイチェルの子供なのではないかと悩む。

 

第1作で、デッカードはレプリカントと恋愛関係に落ちたが、

Kにもホログラムの恋人ジョイがいて、Kはそれをちゃんと女性のように扱う。

プログラムされているとはいえ、ジョイの方もKを慕い、守ろうし、

自らも実体を持ちたいと願うなど、とても健気だ。かわいいなあ、ジョイ。

 

ネタバレしてしまうと、

幼少期のKの記憶は、デッカードとレイチェルの娘を逃がすために

娘に追手がかからないために”おとり”としてKに埋め込まれた記憶なのだが、

デッカードを父親と信じ、彼の子供を思う言葉に心を撃たれ、

全力で守ろうとしたKが切ない。

それが偽物の記憶だとわかってからも

「なぜ自分を助ける?」といぶかるデッカードを、娘に合わせてやろうと案内し、

撃たれていた自分は死んでしまう―――

埋め込まれた記憶に殉ずるKがひたすら可哀そうだ。

『ブレードランナー』で、自分が死ねば、いろんな星で働いた記憶も消える、

と、デッカードに話したロイ(ルドガーハウワー)との対比になっている。

 

対比といえば、初作の「デッカードはレプリカントか人間か」という疑問に対し、

続編には「Kがデッカードの息子か否か」の可能性も、わずかに残っている。

レイチェルのおなかにいたのは双子で、片方が亡くなったとされているのだし、

旧型プリカントが起こした大規模停電で、敵味方双方の記録が無くなっている。

そして話はデッカードがレイチェルに惹かれた所まで計算されていた可能性

――まで忍ばせる。

本作品のデッカードが、旧作のデッカードの記憶を植えられた

レプリカントである可能性もある。

長生きすれば共感力が備わり、そこに記憶まで植えつけられたら、

それはもう人と何が違うのだ? 彼らが悩むのも当然だ。

(ファイナルカット版のレイチェルもこのパターンだったね)。

 

記憶と事実の話も、フィリップ・K・ディックの得意とするところだから、

このあたりもどっぷり、彼の世界観で泳がせられている、というところだ。

 

映画『ブレードランナー』のシリーズは原作から大きく逸脱し、

細部にわたり、原作とは違っている。

でも、映画化したリドリースコット監督も、ドニ・ヴィルヌーブ監督も、

ディック作品を読み込んでいるんだろうなあ、ほれ込んでいるんだろうなあ、

という、原作への愛を感じる。

 

映画はこうでなくっちゃね。最高に良い映画です。

 

―――しかし、山ほど映画ゴタクを書いたな、久々に。

(2月に書きかけていたのを、今投稿しただけです。

 ちなみに今日はお仕事(web会議)の日で、終わったばかりです……)