私の動画チャンネルにご登録下さっている方なら、きっとqueserasera(ケセラセラ)さんをご存知の方は、多いことと思います。

 

彼女と私は、見ている方向性が一致していて、翻訳する動画のジャンルも似ています。

 

ですが、彼女と私には、絶妙に異なるセンスの違いがあって、「これをやろう!」と選ぶものが、結果的に自然と違ってくるんですよね。

 

特に、queseraseraさんは、日本人のSNSではまったく話題にならないような、コアなものをご紹介してくれることが多く、彼女のセンスにはいつも脱帽しています。

 

 

 

でも、やはりお互いの方向性が似ているからこそ、「これ訳そう!」と思う動画が、かぶりそうになることも時々あります。

 

だからこそ私たちは、お互いの動画が決してかぶらないよう、毎回お互いに確認しながら翻訳活動をやっています。

 

だって、同じ動画をやっても、しょうがないですからね。

 

もし、うっかりかぶってしまったら、「えー!ごめーん!知ってたら別の動画をやったのに!」という気持ちになります。

 

だって、真実の詰まったいい情報を届けたい!と願う、純粋な気持ちとしては、

 

「皆さんに対して、1本でも多く内容の違うものを届けたい!」

 

と思うからです。

 

だって、私たちには知らなければならないことが、たくさんあるからです。

 

ですから、内容がかぶってしまうことは、とても悔しいことです。

 

かぶったら、残念なのです。

 

見てくださる皆さんに、種類の異なる情報を届けるためにも、また、かぶらないものをやることで自分たちの時間を大切にするためにも、お互いに違うものを担当するようにしています。

 

私としては、「もしqueseraseraさんがそれをやるなら、私はやらないで別のものに取り組みますね」というスタンス。同じく彼女も、「Moonのにほん語さんがやるなら、私は別のものをやりますね」という感じ。

 

 

私は、そんな彼女と出会えたことが、本当に嬉しかったです。

 

 

でも、一方で私は、このような情報発信の基本となる姿勢は、良心のある人間だったら誰だって自然とそういう気持ちになるだろうと思っているところもありました。

 

 

そう、

 

「そうではない人」と出会うまでは。

 
 

さまざまな配慮をしながら、自分の意欲とのバランスを取りながら活動をしていく中で、それでも翻訳活動の内容が、もし誰かとかぶるようなことがあったとしても、それが十分素晴らしい内容であるなら、別にそれは皆さんにとって喜ばしいことになりますし、とても良いことだと私も思います。かぶったとしても、関係がありませんし、気にすることでもありません。

 

ですが、もし内容が全然そうではないとしたら、私もさすがに悲しいですし、ショックを受けます。

 

結果的に真実を劣化させ、錯乱させ、専門家に対しては情報元の評判を落とすことになりかねません。

 

なので、そういうシチュエーションになったら、私は自分のスタンスを変えて、やるに値することを最後までやり続けます。

 

 
 

 

人というのは、

 

なにかしらの「世の中にとってよいこと」というジャンルのモノを発信する際、

 

純粋に「この世界をいい場所にしたい!」という気持ちからそうしているわけではなく、

 

何か別の、自分の中にある欲求や、強いエゴイズムによって突き動かされているという、悲しい側面を抱えている時もあるのだろうなと痛感させられることがあります。

 

というか、むしろ、そのケースの方が圧倒的に多いのかもしれません。

 

だからこそ、こんなにも偽情報が蔓延してしまうのでしょうね。

 

あの時も、あの時も、

そして、あの時もそうだった・・・という風に。

 

同じことを繰り返してしまう。。

 

人の心の闇を、うまく利用されているというわけです。

 

 

拡散活動は、

 

「本当に自分自身が、その内容をよく理解した上で拡散している」

 

というタイプの人は本当に少なくて、

 

それよりも、

 

「なんかいいこと言ってんだろーな」的な、

 

「まぁ、あの人から発信されてるしな」的な、

 

気晴らし的な感覚で、内容をよく確認しないまま拡散されることも多いようです。

 

あるいは

 

「おっ!なんかおもしろいの来たぜ!」的な。

 

それがおもしろいかどうか?という、言ってみれば歪んだ快感を自己の羅針盤にしてしまっている人も大勢いるようです。だから、ある意味、中毒性があるわけですよね。

 

もう、こうなってくると、

 

その情報が、たまたま「当たり」なのか「ハズレ」なのかの違いだけになり、

 

自己の本質にあるものはスカスカだったり、

 

あるいは何か別の承認欲求自己顕示欲求に突き動かされいることになってしまいます。

 

あるいは、「世界を良くしたい」という気持ちよりも、「家族や友人を大切にしたい」という気持ちよりも、

 

「他人を変えてやろう」とか、「言い負かしてやろう」とか、「無知な奴やバカな奴を調教してやろう」とか、歪んだ心理状態になってきてしまいます。

 

私たちは、一人一人、

 

例外なく、誰もが無知で、ある意味バカです。

 

でも、お互いにさまざまなレベルで、無知でバカなのです。

 
だからこそ、こんなにも「助け合うこと」が、素晴らしく価値のあることになってきます。

 

 

 

最初は、良心っぽいものから始まっていたつもりのモノが、いつの間にか「マウントの取り合い」になったり、「自己顕示のアピール」になってしまうのは、どうしてなのでしょうか?

 

 

 

そもそも「自己顕示欲求」というのは、このような活動で満たされるものではありません。

 

 

このような活動だけでなく、他のことであってもそうです。

 

何かのスキル、何かの仕事、何かの活動・・・

 

その「何か」で満たそうとしてみても、終わりがないのです。

 

自己顕示欲求は、満ちるものではないからです。

 

それは、消滅することでしか、真の充足感を得られません。

 

 

自己顕示欲求を、唯一、消滅させてくれるものとは、

 

自分自身が、

自分の心の深い部分で、

自分のありのままのすべてを受け入れ、

 

自分がそれを愛するということです。

 

 

その一連の心の鍛錬を、

他人にやってもらうことはできません。

 

 

自分でそれを愛するということは、

 

自分の中に渦巻く様々な面が、

「いいかどうか?」や「好きか嫌いか?」すらも関係なく、

 

それらを超えて、

それらを包み、

 

それらを自分の器の中に、祝福とともに招き入れるということです。

 

 

究極の愛は、いいか悪いか?好きか嫌いか?を超えています。

 

 

ひとりひとりが、自分の中で、そのような愛を実現して、昨日よりも今日、今日よりも明日、また一つ自分のことを愛で包めるようになれば、

 

あなたはもっと、自分のことが好きになるし、

 

あなたの隣にいる人も、きっとそれぞれの愛に包まれるようになります。

 

この世界は、そうやって、

一歩一歩、よくなっていくことができるはずだと思います。

 

 

 

 

個人的な話ですが、ここしばらく、胸が張り裂けるような出来事が続いていました。

(注) 翻訳の件とは、まったく関係のない出来事です。

 

でも、体験していることの本質は、すべてが深い部分で繋がっているような気がしていました。

 

 

なんであれ、そうですが

 

自分に何かができる時もあれば
自分にはどうにもできない時もある・・

手も足も出ず、口も出せずに、胸が張り裂けるしかない時もある...

時には、張り裂けた痛みを抱えたまま、次の一歩を踏み出さなければいけない時もあります。

でも、張り裂けた胸の中心にあるものを丁寧に見てみれば、そこにあるのは「自分」という人間性の本質です。

 

 

 

胸が痛むのも仕方がない。

それは、あなたが、あなただからだよ。

と。

 

 

 

 

今日は満月。

 

 

曇り空で闇しか見えなくても、「光は確かにそこにある」という信頼感。

 

 

みなさんもそれぞれ、素敵な満月のゆらめきを、お楽しみくださいね。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

 

 

Bio Sinfonia

 

 

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